言い訳~blanc noir~
 いつも沙織がいるはずの空間に、沙織がいない。

 部屋のそこかしこに沙織がいた温もりがしっかりと残っているのに、どこにも沙織はいない。

 キッチンの壁に掛けられた猫柄のエプロン、沙織が使っていたノートパソコン、沙織のパジャマ、沙織のマグカップ。

 床に敷かれたラグには沙織の黒髪が一本落ちていた。

 髪を指で拾い上げる。眠っていた涙が起き出したかのように和樹の瞳に膜を張る。ゆらゆらと視界が歪み、鼻の奥が痛みを放つ。


「沙織、本当に死んだのか……?」


 チェストに置かれた骨壺に問いかけた。しかし和樹の声が虚しく部屋に響くだけだった。

 今にも玄関の扉が開き、弾むような笑みを浮かべた沙織が「ご主人様」と帰ってきそうな気がした。

 いつものように背中に腕を回して胸に顔を埋めた沙織が「ご主人様、大好きです」と微笑んでくれるような気がした。

 だが全て「そんな気」でしかない。


 もう沙織は帰って来ない。

 もう一生会う事も、触れる事も、その声を聞く事も出来ない。


 生きている事が不思議だった。

 沙織が死んだというのにこの状況を理解している自分が信じられなかった。


 ふとテーブルに目を向けると4つ折りにされた白い紙が置かれている事に気が付いた。


 それが何なのか和樹にはすぐにわかった。


“今日の手紙”だ。


 小刻みに手が震えている。開くことが怖かった。目を通すことが怖かった。目を閉じ呼吸を落ち着かせる。短く息を吐きだした和樹は震える手でゆっくり手紙を開く。

 と、すぐに丸っこい沙織の文字が和樹の目に飛び込んだ。


「何でこの日に限って手書きなんだよ……」

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