言い訳~blanc noir~
 伊藤は周囲の様子を窺いながら小声でそう言った。

 和樹に話し掛ける者もめっきり少なくなった今、一体何の話なんだと訝しく思ったが、和樹は「わかった」と頷いた。

「出来れば人に見られたくないんです。場所はどこがいいですか……?」

「そうだね。俺と変な噂になっても伊藤さんも困るよね」

「そ、そんな意味じゃないんですけど……。ごめんなさい」

 その慌てた伊藤の様子に和樹はふっと笑った。

「食事、まだならどこか個室でも取ろうか」

「……はい。そっちのほうが助かります」


 銀行から車で15分ほどのこじんまりとした小料理屋の個室を午後7時30分に予約していた。

 店に到着すると先に伊藤が個室に通されていた。

 眉間に皺を寄せ、明らかに緊張した面持ちで俯いている。

 ただならぬ空気を感じた和樹は、

「どうしたんだよ。随分深刻そうな雰囲気だけど、仕事で何か悩んでるの?」

 すると伊藤は唇を噛みしめ顔を上げた。


「椎名さん……私……どうしよう」


 伊藤はその後の言葉が続かず思い詰めたような固い表情で和樹から目を逸らした。

 しばらく話の切り出しを待つ事にしたが一向にその気配もない。

 テーブルの端に置かれたウーロン茶の小瓶を手に取り、伊藤のグラスに注ぐと伊藤が顔を上げ和樹に小さな声で「すみません」と呟いた。

「伊藤さんらしくないね。言い辛い話なの?」

「すみません……私、何から話せばいいのかわからなくて」

「仕事の話? それとも俺に一言文句が言いたいとか?」

 和樹が冗談ぽく笑ってみせる。しかし伊藤は強張った表情で和樹を見つめた。

「椎名さんごめんなさい……本当にごめんなさい。私、どうしたらいいんだろう……」

 今にも泣き出しそうなほど伊藤の目が動揺しているのが見て取れた。だが、何への謝罪なのかがわからず和樹は戸惑う。

「突然謝られても何の事だかわからないんだけど。俺、伊藤さんに謝られるような事されたかな」

「椎名さん。私、実は妊娠していたんです」

「……え?」

 予想もしていなかった伊藤の告白に和樹が顔を上げた。しかも「している」ではなく「していた」という過去形は違和感しかなく、なぜそんなカミングアウトを和樹が受けているのか、呑み込めない。

「妊娠していたってどういう事」

「沙織さんの事で椎名さんがお休みされている時だったんですけど……」

「4月か」

「はい。その頃生理がずっと遅れていて……彼氏に言うのが怖かったんです。それで5月の連休に入ってすぐ古賀さんに、その……相談したんです」

 和樹は黙って伊藤の話に耳を傾けていた。しかし思い出したかのように胸の鼓動が早鐘を打ち始め、息苦しさを感じていた。

「検査薬したら? って言われて、私がついててあげるって言われて……その、古賀さんのお家で検査したんです。そこで……妊娠してる事がわかって……」

「それで……?」

「古賀さんと一緒に産婦人科に行きました。だけど彼氏に打ち明けたら今は無理だって言われて。結局私……手術受けたんです……」

 そこまで話すと伊藤は涙を浮かべ俯いた。
< 145 / 200 >

この作品をシェア

pagetop