言い訳~blanc noir~
 伊藤を自宅まで送り、その後、気が付くと以前暮らしていたマンションの前に和樹はいた。


 一体、何分、何十分、車の中からマンションを眺めていたかわからない。

 以前、和樹が止めていた駐車場には見慣れない黒いセダンが止まっていた。和樹が出た直後越してきた住人の車だろう。

 沙織と暮らしたその部屋。

 沙織の匂いも温もりも全て新しい住人が上書きするようにそこに思い出を重ねていくのだろう。


 もうどうでもいい。

 何もかもどうでもいい。


 どれだけ沙織を思い続けようと沙織はもう死んだ。思い出だけを残して死んだ。俺を残して死んだ。

 幸せは幻のようなものだと沙織は言っていた。

 そんなもの必要ないとも沙織は言っていた。


 幸せ? そんなものこの世に存在するのか? 

 俺が幸せだと感じていたものは一瞬にして消え去った。

 幻のように、跡形もなく。


 愛、幸せ、そんなもの必要ない。

 もう二度とそんなものを信じるか。

 どうせいつか死ぬんだろ? いつか呆気なく死ぬんだろ?

 愛を求め、幸せを欲した沙織が残したもの。


 愛の残骸と幸せだった日々の残像だけだ。


 愛を残して死ねば、残された人間はどうなる?


「―――うるせえよ!!」


 けたたましく鳴り響く携帯電話の着信音。

 掛けている相手はいちいち画面を確認しなくても夏海だとわかる。30秒近く鳴り響くとぴたりと音が止まり、そして、再び鳴り始める。


 和樹は携帯電話を力任せにダッシュボードに投げつけるとがんっと鈍い音を立てバッテリーが飛び出した。


「―――俺、お前を殺すかもな」


 アクセルを一気に踏み込むとアスファルトを鳴らし夜の闇を車が走り出した。


 沙織の生まれ変わりだとあの女は言った。

 俺たちの元に沙織が帰って来たと。


 他人の腹に宿った子供の写真をちらつかせながら「これが沙織さん」だとあの女は微笑んだ。

 伊藤の中絶に理解を示しながら、俺には何て言ったか覚えているか?

 殺人はしたくない、と。

 笑わせんな。


 そんな卑劣な真似をしてまで手に入れたいお前の幸せとはなんだろうな。


―――俺がお前の幸せを破壊してやるよ。
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