言い訳~blanc noir~
 ほどなくして獣医から「椎名さんどうぞ」と声を掛けられ診察室に再び通された。

「心筋症ですね」

「……それはどういう病気なんですか?」

「いわゆる心臓病です。クロちゃんの場合、肺に水がたまっているため呼吸が苦しくなっている状態ですね。利尿剤を使用して水をとってあげれば呼吸は一時的には落ち着きます。ただ……」

 獣医はレントゲン写真とカルテを交互に眺め和樹を見つめた。胸の鼓動が激しく脈を打ち始めるのを感じた。
「クロちゃんの推定年齢は15才から16才かと思われます。もう平均寿命を超えたおばあちゃん猫ですから治療をしてもどこまで持ってくれるか―――」

「どういう事ですか……? 治らないという事なんですか?」

 和樹の声が微かに震えていた。

「はっきり言いますとこの病気は治りません。それに動物は症状がかなり進行するまで弱った素振りを見せませんから発見が遅れるんですよ。クロちゃんの場合、かなり状態が悪く……場合によってはここ数日でしょうかね……」

「ここ数日? それはクロが死ぬという事ですか……」


―――嘘だろ。クロが死ぬって……嘘だろ?


 和樹の手が震え始めた。


「一応覚悟はされておいてください。ただ肺の水を利尿剤を使って抜けば呼吸は落ち着きます。その後、投薬治療を行えば……。それでももうおばあちゃん猫だからですねぇ。どこまで持ってくれるかはクロちゃんの生命力になりますが」


「お願いします! どうか、どうかクロを……助けてください! お願いします!」


 獣医に何度も頭を下げ必死に訴えた。

 お願いだ、クロを連れて行かないでくれ。沙織、お願いだからクロをまだ連れて行かないでくれ。

「クロ……大丈夫だよな? クロ、死んだりしないよな?」

 和樹がクロの背中を撫でるとクロが顔を持ち上げ「にゃあ」と掠れた声で鳴いた。

「椎名さん。今日一日お預かりします。すぐに治療を開始しますので。何かあればすぐにご連絡します。呼吸が落ち着けばクロちゃんが一番落ち着くご自宅に連れて帰ってあげてください」


「どうか。どうかクロを……助けてください。よろしくお願いします」


 そしてその夜クロがいない初めての夜をこのマンションで迎えた。


 いつか別れの日が来る事くらいわかっていた。

 それでもクロはずっと自分の傍にいてくれるものだと、どこかで現実から目を背けていた。毛艶の失われたぱさぱさの黒い毛、雌猫のわりに大柄だったクロの体は年々小さくなり、背中を撫でれば背骨が微かにあたる。

 それでも―――。


 クロはまだ大丈夫だと思い込んでいた。

 この部屋の中にクロがいない。ベッドで体を丸くさせ眠るクロがいない。言葉に出来ないほどの不安と恐怖が押し寄せる。


 沙織の遺影に触れた。


「沙織。クロを連れて行かないで。クロまでいなくなったら、俺、どうしたらいいんだよ……」

 気付くと情けない事に涙声になっていた。

 いても立ってもいられないほどの不安から和樹はパソコンを立ち上げ毛玉にメッセージを送った。個人的にメッセージを送るのは5年半ほどの付き合いがあるがこれが初めてだった。
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