言い訳~blanc noir~
―――今夜はすき焼きらしい。

 昼休みを迎えた頃、上司に誘われ銀行から徒歩で数分。商店街の中にある昔ながらの和食を出す店に向かった。

 上司と雑談を交わしながら歩いていると精肉店の前で沙織の姿を見つけた。

 沙織もすぐに和樹の姿に気が付いたのだろう。

 あっと顔を上げたが、隣にいる上司の姿に気付いた沙織はすぐに何事もなかったかのように顔を背けた。ガラスケースに陳列されたすき焼き用の牛肉を指さしていた。

 どぎまぎと、ぎこちない沙織の表情はどこか照れているように見える。

 隣を通り過ぎるとふわっと沙織のストレートの髪からシャンプーの香りが和樹の鼻腔をくすぐった。

 上司との会話を続けたまま、さり気なく背後へと首を巡らせると、沙織が腰の辺りで手を小さく振っていた。

 片頬で微笑む。沙織は照れたように俯いた。

 たったそれだけの事なのに、胸の奥が甘痒いような感覚になってしまった。それは沙織だけではなく、和樹にとっても同じだった。


「椎名は結婚はまだか?」


 小鉢に入った里芋を口に放り込んだ上司の佐原が、もぞもぞと口を動かしながら尋ねてきた。


「結婚ですか? まだ予定はありませんが」


「堀田の奥さんの友達が椎名の彼女だと聞いたが。この前の結婚式に来ていたあの子だろ?」


「はい」


「随分美人だったな。丸和銀行一の色男はさすが選ぶ女も違うな」


 佐原は笑い声をあげながら焼き魚を口にした。


 その場は適当に話を合わせたが、結婚式の後ケンカ別れしてから1ヵ月半、美樹とは一度も会っていない。


 今までも何度か衝突のような事はあったがいつも和樹が折れる形で関係修復していた。しかし和樹から電話やメールが一切なく、美樹も意地を張っているのかそれきりになっていた。

 電話しないとまずいなと思う気持ちがないわけではないが、どうせ掛けたところで不機嫌な美樹の愚痴や嫌味に「ごめん」と謝り続けるしかない。


 そう思うと気が重たくなる。


 それ以前にもう美樹に対して情はあっても愛情ではない事くらい和樹が一番わかっていた。

 きちんと会って別れ話をしよう。


 そう数日前から思っているが、なかなか行動に移せずにいた。


 沙織に乗りかえようなど、そういった邪な気持ちを持っているわけではない。相手は人妻であり、沙織が自分に対して特別な感情を持っているわけでもないだろう。


 ただ美樹との別れ話に費やす一日のせいで、沙織と会えなくなる事が嫌なだけだ。


 自分の小賢しさにうんざりした。
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