言い訳~blanc noir~
 この手で抱きしめたい、そう思っていた沙織をようやく抱きしめる事が出来た。

 沙織の温もりや匂い、それが美樹に対する後ろめたさをじわじわと溶かしてゆく。

 凍てつく寒さも気にならないほど気持ちが満たされる。好きな女が自分の胸の中にいる。そう思うだけで幸せを感じた。

 ただここからどうすればいいのか、それが和樹にはわからずにいた。

 今までなら顎を指先で持ち上げ、顔を近づけ、そして唇を重ねる。

 それが和樹にとってごく当たり前の事だったし、たかだかキス一つで悩んだ事もなければ躊躇した事もなかった。

 女にキスを拒まれた経験もない。拒まれたらどうしようか、そんな馬鹿げた心配をした事もない。

 しかし沙織に対してはどういうわけか小心になる。沙織に触れる事が怖いと思うこの感情が何なのか自分でもわからない。

 このぎりぎりの境界線を踏み越えてしまえば自分が“もっと”を欲してしまいそうだった。


「お家入りませんか? 本当に寒くなってきました」


「あ、すみません」


 どちらからともなく体を離すと沙織が柔らかな笑みを浮かべた。その表情に恋を覚えたばかりの高校生のように戸惑いながら和樹は目を伏せる。

―――俺こんな男だったっけ?

 そんな自分に呆れてしまう。


 車を駐車場に移動させ、部屋に入った頃、時刻は日付けが変わり午前1時になろうとしていた。

 こんな時間まで沙織と一緒にいる事は初めてだったせいか、自分が暮らす部屋だというのになぜか落ち着かない。


「ご主人様、紅茶飲みますか?」


「あ、僕がいれますよ」


「いえいえ。クロと一緒にゆっくり……。あ! クロ、今日はお留守番だった。私、クロを連れて帰らなきゃって思ってたから、ご主人様の部屋に寄ってもらいたかったんです」


「あ、そうだった。何か部屋が寂しいなと思ったらクロがいないからか」


「私、なにしてるんだろう」


 二人で顔を見合わせて笑った。


 普段置き物のようにただ身を丸めているだけのクロが意外と大きな存在であると再認識した。いつの間にか和樹にとって、沙織もクロも掛け替えのない存在になっているらしい。


 沙織が湯気が立ち昇るティーカップをテーブルに置くとベルガモットが仄かに香る。


「茶葉がもうなくなってるんだけどアールグレイ買っておけばいいですか?」


「沙織が好きな紅茶でいいですよ」


「じゃあこれ買っておきます。ご主人様はコーヒーより紅茶のほうが好きなんですね」


「ああ、そうなのかな?コーヒーも飲むんだけど、でもそう言われてみたら紅茶のほうが好きかもしれません。沙織は?」


「私も紅茶派かなぁ。紅茶はストレートで飲めるけど、コーヒーは砂糖とミルクを大量に入れないと飲めないんです。太っちゃいそうだからコーヒーは危険なんですよね。私、実は油断するとすぐ太るんですよ」


 その言葉に思わず沙織の胸元に視線が向いてしまった。


 すると沙織が胸元を手で覆い、その仕草に顔を見上げた。
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