夢のなかの彼女
プロローグ「大切な約束」
   【プロローグ 大切な約束】


 テーブルの中央に麦茶の入った透明なボトルが汗をかきながら突っ立っている。真夏の太陽の光がそれを貫き、木目が綺麗な茶色いテーブルに負けず劣らずの綺麗な水の影を作った。
「陽ちゃん、手が止まってるよ。早く終わらせて外に遊びに行くんでしょ?」
 やまもんが口を尖らせながら言った。
 小学三年生の夏休み初日の昼前。
 僕と幼馴染のやまもんは額を汗で濡らしながら、夏休みを有意義に過ごすために、沢山遊ぶために全ての宿題を夏休み初日で終えようと奮闘していた。
「え? あ、うん、ごめん……」
 僕はやまもんに指摘され、俯きながら謝った。
「あ~、またそうやって簡単に謝っちゃう。また皆から泣き虫陽ちゃんって言われちゃうよ? 陽ちゃんの陽は太陽の陽なんだから、ほら、笑わないと」
 泣き虫陽ちゃん。それが僕の渾名だ。太陽の陽太という名前に似合わず、すぐ泣くし、男らしくないと言われ、いじめられていた。当然、僕はこの渾名が大嫌いだし、それ以上に陽太という自分の名前が嫌いだった。
 名前負けしている自分が、嫌いだった。
 僕は幼馴染のやまもんを、時に朗らかやまもんと呼び慕っていた。いつだって笑顔だし、優しいし、頭もいいし、何より可愛い。同い歳ではあるが、僕のお姉さん的な存在だ。
 ちなみにやまもんのやまは彼女の苗字の山本の山からきている。少し安直すぎるかもしれないが、彼女はこの渾名を気に入ってくれているようで、僕がそう呼ぶたびに太陽のような笑顔を見せてくれる。
 僕を泣き虫陽ちゃんと呼ばないのはただ一人、やまもんだけだ。励ましてくれたり、時にはこんな僕を褒めてくれたりもした。そんな彼女の気遣いが心の底から嬉しかった。
「……ごめん」
 僕はまた謝ってしまった。
「だ~か~ら~、すぐに謝っちゃだめだよ。陽ちゃんは悪いことしてないんだからさ」
「うん、ごめん」
「ほら、また謝った。だめだよ、ちゃんと自分に自信持たないと。陽ちゃん、良いところ沢山あるんだから」
 やまもんが自信満々に言った。
「うん、ごめ――」
「はい、ストップ!」
 やまもんが僕の口を手で塞いできた。びっくりして思わず彼女を見つめた。
 口が塞がっているせいで上手く喋れない。それを気づいたやまもんは慌てて僕の口から手を離したかと思えば、急に悲しげな表情になった。
「陽ちゃん、私はごめんよりもありがとうって言ってほしいよ。そっちのほうが嬉しいもん。だからさ、言ってよ」
 やまもんが真っ直ぐ僕の目を見ながら言った。彼女の目は常にとても綺麗で、澄んでいて、時折吸い込まれそうな気分になる。
「うん。あ、ありがとう」
 僕は俯き、照れながら言った。
 そして、少しずつ顔を上げてやまもんの表情を窺うと、さっきまでの悲しげな表情は跡形もなく、代わりに太陽のような満面の笑顔があった。


 冷静に考えたら初日で宿題を全て終わりにするなんて、無謀だ。どうやらやまもんも全く同じことを思っていたらしく、宿題に飽きた僕が予定通り川に遊びに行こうと言うと、快く誘いに乗ってくれた。
「陽ちゃん! これ見て!」
 やまもんが川の中から見つけたであろう綺麗な小石を満面の笑みを浮かべながら見せてきた。
「どう? 綺麗でしょ?」
「うん、やまもん凄いよ」
 僕は素直にやまもんを褒めた。褒められたのがよほど嬉しかったのか「えへへ」と照れ笑いをしながら僕に向かってバシャバシャと水を浴びせてきた。きっと照れ隠しのつもりなのだろう。
 僕は両手一杯に水をすくって浴びせ返した。
「ひゃあ、冷たい!」
 やまもんがはしゃぎながら言った。
「タイムタイム! タイムだよ!」
「だめだめ、タイムは無しだよ」
 僕はこれでもかとやまもんに水を浴びる。
 やまもんはきゃあきゃあと笑い声を上げながら逃げ回った。
「陽ちゃんが全然手加減しないから服がびしょびしょだよ」
 やまもんがはしゃぎ、笑いながら言う。
「やまもんだって拾ってきたバケツ使って頭からかけてきたじゃん」
「あはは、陽ちゃん変な声出てたよね。ってことは、今回も私の勝ちかな?」
 やまもんがふふんと鼻を鳴らし、腹を抱えてけらけらと笑った。


 やがて、僕らは遊び疲れて岸へあがろうとした。
 そのときだった。
「あれ? 泣き虫陽ちゃんじゃねえか?」
 聞き覚えのある嫌な声がした。声のしたほうへ振り向くと、やはり、そこにはよく僕をいじめてくる同じクラスの佐川と亀田がいた。
「つうか、お前ずぶ濡れじゃねぇか。なに?もしかして川に落ちて泣いてたとか? だとしたら最高に面白いな」
 佐川がにやにやしながら僕を皮肉った。
「え、えっと――」
「なんだよ、聞こえねえよ。もっとはっきり喋れよ」
 亀田が耳に手を当てて大袈裟に聞こえないような振りをする。
「ちょっと二人とも、やめなよ!」
 やまもんが二人を窘めた。
「はあ? 何で山本がいんの? てか、山本もずぶ濡れじゃん」
 佐川が少し驚いた様子で言ったが、すぐにいじめっ子の表情になる。
「なに? 二人で落ちて泣いてたとか?」
 亀田がにやにやと、皮肉っぽく言う。
「違うよ、私と陽ちゃんは水遊びしてたの。だからずぶ濡れなの」
 やまもんが若干声を荒らげる。
「なにキレてんだよ。こいつむかつくわ~」
 亀田がやまもんを挑発するように言う。
「そんなに水遊びが楽しいなら俺らも混ぜろよ」
 佐川が僕のほうに向き直ったかと思うと、僕の腕を掴み、振り回すようにしながら川の中へ転ばせた。
 口と鼻から水が入り途端に苦しくなった。
 悔しくて、たまらなかった。
「やめてよ! 陽ちゃんに酷いことしないで!」
 やまもんが泣きそうな声で叫ぶ。
「ああもう、うるせえなあ。亀田、そいつも沈めてやれよ」
「おっけい」
 亀田は頷くと、じりじりとやまもんの方へ近づいていく。
「やめてよ、嫌だよ! 陽ちゃん!」
 やまもんが泣き始め、膝をがくがくさせなから僕の名前を叫んだ。
 僕は佐川の手から逃れようと懸命にもがいた。
 なんとか水中から顔を出すと、亀田がやまもんの腕を掴んでいるのが見えた。
「つ~かまえた~」
「嫌だよ、離してよ」
 やまもんが泣きながら暴れている。その姿を目に捉えた瞬間、僕の頭のなかで何かがプツンと切れる音がした。
「やめろよ、お前ら!」


「陽ちゃん?」
 やまもんが心配そうな言葉に我に返った。
「あれ? あいつらは?」
「あの二人なら逃げてったよ」
 やまもんの指さす方を見ると、こちらに背を向けて走っている二人の背中が遠くに見えた。
「陽ちゃんが佐川君の手に噛み付いて、振りほどいたの。そのまま私のほうまで走ってきて、亀田君を突き飛ばして私を助けてくれたんだよ」
「え? 僕が?」
「うん、かっこよかったよ。やっぱり、陽ちゃんは泣き虫陽ちゃんじゃないんだよ」
 やまもんが心底嬉しそうに、僕の額を撫でながら言った。
「あ、ここ、血が出てる」
 やまもんが僕の右腕の擦り傷に気づき、彼女のお気に入りの水色のハンカチを当ててくれた。
 ――僕、勝ったんだ。初めてあいつらに勝てたんだ。
 そう思うと涙が出てきて止まらなかった。
「あれ? なんで? 嬉しい筈なのに……」
「涙はね、嬉しいときでも出るんだよ」
「そうなの?」
 僕は目を丸くしながら言った。
「嬉し涙は強いって、お母さんが言ってたよ」
「強いの?」
「そうだよ! 陽ちゃんはやっぱり強いんだよ!」
 やまもんが小さくガッツポーズをしながら、自信満々に言った。僕のことでこんなに一生懸命になってくれるやまもんが可笑しくて、ありがたくてしかたがなかった。
「ありがとう」
 僕は照れながらも、しっかりとお礼を言った。


 川を上がるとすぐに自転車が並走できなさそうな小さなサイクリングロードがある。それを北に少し進むと木々が生い茂る場所があり、その木々のなかに小さな神社がある。そこはとても空気が澄んでいて休憩にはとても良い場所だ。
 僕らは小さい頃から川や他の場所で遊んだ後は決まって、必ずこの場所で休むのだ。
「――ねえ、陽ちゃん」
 やまもんが境内の正面の階段に腰掛けながら、いきなり改まった様子で、真面目な顔をしながら、
「ずっと、そばにいてね」
「え? なんだって?」
 僕は思わず聞き返した。するとやまもんは顔を真っ赤にしながら俯いたが、やがて顔をあげ、目をしきりに瞬かせながら口を開いた。
「ずっと、そばにいてほしいなって。さっきみたいに、また私がピンチのときは助けてほしいな。陽ちゃんは、強いんだから」
 やまもんの顔が赤い。耳まで赤くなっている。どうやら相当恥ずかしいみたいだ。
「いいよ、約束だ」僕は微笑んだ。
「本当に? 約束だよ?」
 やまもんが念を押しながら確認してくる。
「うん、ずっとそばにいる。必ず、助けるよ」
 そうして、僕らは指切りを交わし、単純だけれど、とても『大切な約束』をした。そして、お互いにずぶ濡れになった格好を見て笑い合った。


 ちなみに宿題のほうだが、やまもんは毎日コツコツとやっていたようなので夏休み最終日には全て終わっていたが、僕はまったく手つかずだった。
 夏休み最終日にやまもんに怒られながらだが、なんとか終わらせることができた。
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