夢のなかの彼女
僕は、幼馴染の少女の家族はとても仲が良いものだったと記憶している。
離婚とは限りなく無縁だと、少なくとも僕は思っていた。
「一体何があったんだ?」
僕は何度目かわからない疑問形を幼馴染の少女に投げかけた。けれどそれに答えることはなく、彼女は目を伏せ、黙り込んだ。
元気一杯な幼少の頃とはまるで正反対だ。太陽のように眩しかった笑顔は跡形もない。まるで別人だ。
「……一体何が――」
何度聞いても幼馴染の少女からは返答がない。
「仲が、悪いのか?」
僕は思い切って核心を尋ねた。すると幼馴染の少女は涙を拭いながら立ち上がった。
「悪いから、離婚するかもしれないんじゃないの?」
「そ、それは――」
「そんなことも分からないの?」
「……それは――」
「まあ、『大切な約束』すら忘れているような頭の悪い泣き虫陽ちゃんだから、分からないのも無理はないか」
幼馴染の少女が涙を拭いながら、嫌味のように言った。
「私がピンチになったとき、そばにいてくれなかった。約束したのに、そばにいてくれなかった。それどころか私を毛嫌いした」
幼馴染の少女が非難の言葉を羅列する。
何も、言えなかった。
何も、言い返せなかった。
何も、言い返してはいけなかった。
幼馴染の少女のピンチに気づかず、自分勝手な都合で避けた。僕は本当にどうしようもない奴だ。
失いかけて気づく大切なもの、大切なこと。
やっと思い出した『大切な約束』とそれを安易に破った自分自身。
もう、謝っても決して許してはくれないだろう。けれど、それでも、やはり、謝りたい。
誠意を込めて、ちゃんと謝ろう。
「やまもん」
「だからその名で――」
「本当に、今まで、ごめんなさい」
幼馴染の少女が言葉を発する前に僕はそれを制止して、勢いよく頭を下げて謝罪した。
頭を下げたまま目を開けると灰色の無機質なコンクリートが視界に入った。
今の僕の心はこの灰色より淀んだ色をしているのだろうなと自嘲的になった。
「謝ってばっかり」
幼馴染の少女が冷たい声で言った。
「それしかできないの?」
「僕は、もう一度君と、君と仲良くしたい。今度こそピンチに駆けつけたい。君を、君を助けたいんだ」
「一度裏切ったあんたをまた信じろと?」
「――うん」
僕は下げた頭を上げずに言った。
「最低なお願いをしていることはわかってる。でも、君がもし赦してくれるなら――、いや、赦してくれるまで謝り続ける。今の僕にできることは、それだけだよ」
何度目かの沈黙が、再び僕らを襲った。
説得が伝わっているかどうか、まるで分からなかった。
目の前の幼馴染の少女が何を考えているか、まるで分からなかった。何一つ、分からなかった。
視線を左に逸らした。落下を防ぐために設置されたであろうフェンスがそこに突っ立っていた。
こいつは、もはや何の役にも立っていない。ただのオブジェとしか機能していない。その様が俄かにおかしく思えた。
それと同時に、死をより鮮明に、リアルに感じさせられた。
フェンスから無機質なコンクリートに視線を戻し、更に視線をその先へ向けた。その時、僕はぞっとした。
下から見れば四階なんて大した高さじゃない。けれど、上からだと違う。まるで別世界だ。このまま二、三歩足をずらせば大怪我か、運が悪ければ死んでしまうだろう。
僕は改めて今いるこの場の恐ろしさを実感した。
幼馴染の少女に気付かれぬよう息を深く吸い込み、そして吐く。それを何度か繰り返した。
すぐそこにある鮮明な、リアルな死の恐怖。幼馴染の少女が抱えている悩み。そして『大切な約束』を無意識に、いや、故意に破った自分に対する憤り。
それらすべてが目まぐるしく脳内を這いまわり、やがて一つの言葉に辿りつき、僕は沈黙を破った。
「それでも死にたいなら――」
僕は顔をあげながら静かに、そして冷静な声色で言葉を紡ぎ始めた。
「僕が一緒に、死んであげるから」
少し間が空いた。
「それ、本気で言っているの?」
「本気じゃなきゃ、言わないよ」
僕は少女の目を真っ直ぐ見つめながら言った。
数分間沈黙が続いた。その間、僕らは互いをじっと見つめていた。
やがて、幼馴染の少女は僕から視線を外し、すっかり暗くなった空を眺めながら大きく深呼吸をした。
「一緒に、死んでくれるんだっけ?」
幼馴染の少女が言う。その言葉に半ば絶望に近いものを感じた。けれど、それでいいなら、
「君が、本当にそれを望むなら」
「そっか」
幼馴染の少女が笑った。その笑顔を見て僕は思わず目を見開いた。
笑顔を見たのは、何年ぶりだろうか。できればこんな形で見たくなかった。
「それならさ、今から一緒に死んで」
幼馴染の少女が笑顔で言った。
「一緒に死んでくれるんでしょう?」
「――え?」
「だから、一緒に死んでくれるんでしょ?」
幼馴染の少女が、やはり笑顔で言った。
「さっき自分で言ったんじゃない」
幼馴染の少女の笑顔に今まで見たことも感じたこともない不気味さ、恐怖を覚えた。それは先ほどから感じている鮮明な、リアルな死の恐怖に似ていた。
再び視線を右方向に移した。相変わらず鮮明でリアルな死はそこにあった。
少し強い風が僕の頬を叩く。夕焼けの中、カラスや蝙蝠が忙しく飛んでいるのが見えた。
再び目まぐるしい感情達が僕の脳内を這いまわり激しい眩暈に襲われた。
「――うん、わかった」
僕は俯きながらもできるだけ明るい声で言った。
「いいよ、それで」
「じゃあ、手を繋いでよ」
幼馴染の少女が笑顔のまま手を差し出してきた。
「一緒に落ちよっか」
「――うん」
それだけ言って、僕は差し出された手を握った。
やがて僕らは手を繋いだままゆっくりと身体をフェンスの無い方へと向けた。
再び強い風が僕の、僕らの頬を叩く。
「ねえ?」
幼馴染の少女が夕焼けを見つめながら口を開いた。
「頭からいくよ」
「――うん」
それしか返答が思いつかなかった。
「じゃあ、行こっか」
幼馴染の少女が足を一歩進める。それを見て、僕も足を一歩進める。死の恐怖が大きくなっていくのを強く感じた。
「――うん」
「よし、もう一歩」
幼馴染の少女が言い、僕らはもう一歩足を進めた。
『頭からいくよ』
さっきの幼馴染の少女の言葉が頭に蘇る。あと一歩進めば死が待っている。
足ががくがくと震えた。後悔は全くしていなくても、やはり死ぬのは怖かった。
「震えてるけど大丈夫?」
幼馴染の少女が笑いながら尋ねる。
「う、うん。大丈夫だよ」
「本当に?」
「大丈夫だよ。だから、さ、早く、してよ……」
僕は泣きそうになるのをぐっと堪えて、幼馴染の少女に懇願した。
恐怖で口元も震えてきた。これ以上はもう耐えられないかもしれない。早く終わってほしい。いっそ僕から飛び降りてしまおうか。
「ねえ」
幼馴染の少女が僕の顔をじっと見つめてくる。
「なに?」
僕は震える手足、口元を強引に止めながら言った。
「あのね、――だよ」
「――え?」
僕は思わず聞き返した。
「ごめん、なんて言ったの? 聞こえなかったよ」
「だから、嘘だよ」
幼馴染の少女が一歩二歩と後ろに足をずらしながらけらけらと笑った。
「え? 嘘?」
「そう、嘘」
幼馴染の少女が悪戯っぽく笑う。
「飛び降り、ないの?」
僕はおどおどしながら尋ねた。
「この件はね、ひとまず保留にするの」
幼馴染の少女はその場にしゃがみながら言った。
離婚とは限りなく無縁だと、少なくとも僕は思っていた。
「一体何があったんだ?」
僕は何度目かわからない疑問形を幼馴染の少女に投げかけた。けれどそれに答えることはなく、彼女は目を伏せ、黙り込んだ。
元気一杯な幼少の頃とはまるで正反対だ。太陽のように眩しかった笑顔は跡形もない。まるで別人だ。
「……一体何が――」
何度聞いても幼馴染の少女からは返答がない。
「仲が、悪いのか?」
僕は思い切って核心を尋ねた。すると幼馴染の少女は涙を拭いながら立ち上がった。
「悪いから、離婚するかもしれないんじゃないの?」
「そ、それは――」
「そんなことも分からないの?」
「……それは――」
「まあ、『大切な約束』すら忘れているような頭の悪い泣き虫陽ちゃんだから、分からないのも無理はないか」
幼馴染の少女が涙を拭いながら、嫌味のように言った。
「私がピンチになったとき、そばにいてくれなかった。約束したのに、そばにいてくれなかった。それどころか私を毛嫌いした」
幼馴染の少女が非難の言葉を羅列する。
何も、言えなかった。
何も、言い返せなかった。
何も、言い返してはいけなかった。
幼馴染の少女のピンチに気づかず、自分勝手な都合で避けた。僕は本当にどうしようもない奴だ。
失いかけて気づく大切なもの、大切なこと。
やっと思い出した『大切な約束』とそれを安易に破った自分自身。
もう、謝っても決して許してはくれないだろう。けれど、それでも、やはり、謝りたい。
誠意を込めて、ちゃんと謝ろう。
「やまもん」
「だからその名で――」
「本当に、今まで、ごめんなさい」
幼馴染の少女が言葉を発する前に僕はそれを制止して、勢いよく頭を下げて謝罪した。
頭を下げたまま目を開けると灰色の無機質なコンクリートが視界に入った。
今の僕の心はこの灰色より淀んだ色をしているのだろうなと自嘲的になった。
「謝ってばっかり」
幼馴染の少女が冷たい声で言った。
「それしかできないの?」
「僕は、もう一度君と、君と仲良くしたい。今度こそピンチに駆けつけたい。君を、君を助けたいんだ」
「一度裏切ったあんたをまた信じろと?」
「――うん」
僕は下げた頭を上げずに言った。
「最低なお願いをしていることはわかってる。でも、君がもし赦してくれるなら――、いや、赦してくれるまで謝り続ける。今の僕にできることは、それだけだよ」
何度目かの沈黙が、再び僕らを襲った。
説得が伝わっているかどうか、まるで分からなかった。
目の前の幼馴染の少女が何を考えているか、まるで分からなかった。何一つ、分からなかった。
視線を左に逸らした。落下を防ぐために設置されたであろうフェンスがそこに突っ立っていた。
こいつは、もはや何の役にも立っていない。ただのオブジェとしか機能していない。その様が俄かにおかしく思えた。
それと同時に、死をより鮮明に、リアルに感じさせられた。
フェンスから無機質なコンクリートに視線を戻し、更に視線をその先へ向けた。その時、僕はぞっとした。
下から見れば四階なんて大した高さじゃない。けれど、上からだと違う。まるで別世界だ。このまま二、三歩足をずらせば大怪我か、運が悪ければ死んでしまうだろう。
僕は改めて今いるこの場の恐ろしさを実感した。
幼馴染の少女に気付かれぬよう息を深く吸い込み、そして吐く。それを何度か繰り返した。
すぐそこにある鮮明な、リアルな死の恐怖。幼馴染の少女が抱えている悩み。そして『大切な約束』を無意識に、いや、故意に破った自分に対する憤り。
それらすべてが目まぐるしく脳内を這いまわり、やがて一つの言葉に辿りつき、僕は沈黙を破った。
「それでも死にたいなら――」
僕は顔をあげながら静かに、そして冷静な声色で言葉を紡ぎ始めた。
「僕が一緒に、死んであげるから」
少し間が空いた。
「それ、本気で言っているの?」
「本気じゃなきゃ、言わないよ」
僕は少女の目を真っ直ぐ見つめながら言った。
数分間沈黙が続いた。その間、僕らは互いをじっと見つめていた。
やがて、幼馴染の少女は僕から視線を外し、すっかり暗くなった空を眺めながら大きく深呼吸をした。
「一緒に、死んでくれるんだっけ?」
幼馴染の少女が言う。その言葉に半ば絶望に近いものを感じた。けれど、それでいいなら、
「君が、本当にそれを望むなら」
「そっか」
幼馴染の少女が笑った。その笑顔を見て僕は思わず目を見開いた。
笑顔を見たのは、何年ぶりだろうか。できればこんな形で見たくなかった。
「それならさ、今から一緒に死んで」
幼馴染の少女が笑顔で言った。
「一緒に死んでくれるんでしょう?」
「――え?」
「だから、一緒に死んでくれるんでしょ?」
幼馴染の少女が、やはり笑顔で言った。
「さっき自分で言ったんじゃない」
幼馴染の少女の笑顔に今まで見たことも感じたこともない不気味さ、恐怖を覚えた。それは先ほどから感じている鮮明な、リアルな死の恐怖に似ていた。
再び視線を右方向に移した。相変わらず鮮明でリアルな死はそこにあった。
少し強い風が僕の頬を叩く。夕焼けの中、カラスや蝙蝠が忙しく飛んでいるのが見えた。
再び目まぐるしい感情達が僕の脳内を這いまわり激しい眩暈に襲われた。
「――うん、わかった」
僕は俯きながらもできるだけ明るい声で言った。
「いいよ、それで」
「じゃあ、手を繋いでよ」
幼馴染の少女が笑顔のまま手を差し出してきた。
「一緒に落ちよっか」
「――うん」
それだけ言って、僕は差し出された手を握った。
やがて僕らは手を繋いだままゆっくりと身体をフェンスの無い方へと向けた。
再び強い風が僕の、僕らの頬を叩く。
「ねえ?」
幼馴染の少女が夕焼けを見つめながら口を開いた。
「頭からいくよ」
「――うん」
それしか返答が思いつかなかった。
「じゃあ、行こっか」
幼馴染の少女が足を一歩進める。それを見て、僕も足を一歩進める。死の恐怖が大きくなっていくのを強く感じた。
「――うん」
「よし、もう一歩」
幼馴染の少女が言い、僕らはもう一歩足を進めた。
『頭からいくよ』
さっきの幼馴染の少女の言葉が頭に蘇る。あと一歩進めば死が待っている。
足ががくがくと震えた。後悔は全くしていなくても、やはり死ぬのは怖かった。
「震えてるけど大丈夫?」
幼馴染の少女が笑いながら尋ねる。
「う、うん。大丈夫だよ」
「本当に?」
「大丈夫だよ。だから、さ、早く、してよ……」
僕は泣きそうになるのをぐっと堪えて、幼馴染の少女に懇願した。
恐怖で口元も震えてきた。これ以上はもう耐えられないかもしれない。早く終わってほしい。いっそ僕から飛び降りてしまおうか。
「ねえ」
幼馴染の少女が僕の顔をじっと見つめてくる。
「なに?」
僕は震える手足、口元を強引に止めながら言った。
「あのね、――だよ」
「――え?」
僕は思わず聞き返した。
「ごめん、なんて言ったの? 聞こえなかったよ」
「だから、嘘だよ」
幼馴染の少女が一歩二歩と後ろに足をずらしながらけらけらと笑った。
「え? 嘘?」
「そう、嘘」
幼馴染の少女が悪戯っぽく笑う。
「飛び降り、ないの?」
僕はおどおどしながら尋ねた。
「この件はね、ひとまず保留にするの」
幼馴染の少女はその場にしゃがみながら言った。