夢のなかの彼女
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僕らはフェンスにもたれて夕焼けの中を颯爽と飛ぶカラスや蝙蝠たちを眺めていた。
両親の話をしているときの幼馴染の少女の表情は半ば諦め似た表情で、見ていると胸が非常に苦しくなった。
幼馴染の少女の両親は所謂仮面夫婦だったらしい。
まだ幼馴染の少女が幼い頃に、父親があろうことか浮気をし、当然母親は激怒した。
普通ならば、そのまま即離婚は必至だろう。けれど、離婚にまで発展しなかった。なぜなら一人娘の存在があったからだ。だから彼女の両親は離婚に踏み切れずにいたようだ。
――そうだったのか。
幼馴染の少女は今までの幸せだった時間が全て嘘だったことを、ふとしたときに気付いてしまった。いや、気付かされてしまった。そして、心に大きな傷を負わされた。縫っても縫っても修正がきかないほどに。
「とりあえず、聞いてくれてありがとう」
幼馴染の少女が力なく笑った。
「本当に、なんだったんだろうね。私の今までって」
僕は、何も言葉をかけてあげることができなかった。
「私がいたから離婚できなかったって、それってまるで私が邪魔だったみたいな感じだよね」
僕はただ黙って幼馴染の少女の言葉を聞いていた。
「結局今になって二人とも我慢できなくなっちゃって爆発して、それから毎日喧嘩ばかり。それを毎日見せられる私の身にもなれって話だよ」
幼馴染の少女が俯きながら言う。
「おかげで私はこんなになっちゃったしね」
幼馴染の少女が左手首の、まだ新しい傷を撫でながら言った。
「結局、私が弱いのかな。私が悪いのかな。私がいなかったら二人はすんなり別れることができたよね、きっと」
「……それは――」
「ん? なに?」
幼馴染の少女が僕の顔を覗き込む。
「や――、君は悪くないと、思うよ」
危うく呼び慣れた渾名で呼びそうになり慌てて訂正したが、幼馴染の少女がそれに気付かないわけがなかった。
「その渾名、昔は好きだった。初めて付けられた渾名だし、初めて仲良くなった子、陽ちゃんが付けてくれた渾名だしね。でもね、今は違う。寧ろ嫌いかもしれない。呼ばれるだけでお父さんやお母さんを連想して辛くなるから」
「そうだよね。ごめん……」
僕は俯きながら謝った。
「あんた、本当に変わってないよね。そういう後ろ向きなところ」
僕は何も言い返すことができず、ただ俯き黙って無機質なコンクリートを眺めていた。
「まあいいや。私、そういうところ含めてあんたのこと、嫌いじゃなかったし」
幼馴染の少女の顔に若干明るさが戻ってきた。
「昔は弟みたいで可愛くて、背も私より低くて、泣き虫だった陽ちゃんが、今じゃすっかり顔つきも変わって、背も伸びたよね」
悪戯っぽく微笑みながらも静かな眼差しで夕焼けを見つめながら少女は言った。
「私、あんただけは味方だって信じてた。『大切な約束』を覚えているってずっと思ってた」
「ごめん、僕――」
「別にいいよ、もう。なんだかんだ思い出してくれたし、必死に私を死なせまいと頑張って説得してくれたし。それに、一緒に死ぬとまで言われたら、ね」
僕は先ほど言った自分の言葉を思い出し、赤面し、それを幼馴染の少女に悟られぬよう膝に顔を埋めた。
僕の言葉が、思いが彼女にしっかり伝わっていた。それが、何より嬉しかった。
だが、それと同時に、僕は自分を嫌いになりかけていた。今回のことで自分が最低な奴だとわかってしまったからだ。
約束を簡単に忘れ、それを本人に指摘され、泣きじゃくり、根負けしてもらい、許してもらう始末。まるで子供のようだ。まるで『大切な約束』を交わす以前の頃の僕と同じだ。いや、寧ろそれ以下かもしれない。成長したのは身長と年齢くらいだろう。
そう思うと顔の熱が引き、代わりに目から涙が溢れてきた。やはり、泣き虫陽ちゃんは今も健在だ。呼ばれても仕方がない。
「あんた、泣いているでしょう?」
幼馴染の少女が悪戯っぽく言った。
「べ、別に泣いてないよ」
僕は涙を慌てて拭いながら言った。
「ハンカチならあるよ?」
幼馴染の少女がポケットから水色の綺麗なハンカチを取り出し、僕に差し出してきた。
僕はそれを受け取らず、涙で赤くなった目を隠すようにそっぽ向いた。
「別に、いらないよ」
「そう? それならいいんだけどさ」
幼馴染の少女がハンカチをポケットに戻しながら言った。
優しさに触れるたびに幼い頃の思い出が蘇る。そういえばさっきの水色のハンカチには覚えがある。
過去を懐かしみながら、僕は思った。
僕は、僕を変えたい。いつまでも幼馴染の少女の優しさに甘えていてはいけないと思った。
傷つけた分、これからはそばにいてあげようと思った。
一度は忘れ、破ってしまったあの時の、単純だけどそれでいて『大切な約束』を、数年越しに守ろうと思った。いや、守りたいと思った。
「――ねえ」
僕は意を決して問いかけた。
「なに?」
「あのさ、また一緒にいてもいいかな」
精一杯の勇気を振り絞って僕は言った。
「それ、さっきも聞いたよ」
「――え?」
「私が飛び降りようとしてるとき、言ったじゃない。今度こそピンチに駆けつけるからって。もしかして覚えてないの?」
「ごめん。あのときは、その、必死だったから」
僕は頬を掻きながら言った。
「陽ちゃんってそういうところあるよね。我を忘れるってやつ? 自覚ある?」
「それなりには?」
僕は疑問形で答えた。
――そっか。僕はそんなこと言っていたんだ。
「そ、それで、答えは?」
僕は恐る恐る問いかけた。幼馴染の少女は少し考え込む仕草をし、やがてはっきりとした声で言った。
「いいよ。改めて、今度こそ約束だよ?」
「うん! ありがとう!」
僕は勢いよく立ち上がりながら言った。
「うわ、いきなり立ち上がったら危ないよ!」
幼馴染の少女も立ち上がって僕を支えようとする。
その時だった。
先ほどまでとは比べ物にならないほどの突風がいきなり僕らを襲った。
危うく落ちそうになり、僕は右手で後ろのフェンスを反射的に掴む。
冷汗が全身から湧き出て、夏だというのに寒気がした。
だが、ある光景を見てその寒気がさらに大きくなった。
幼馴染の少女の身体が宙にふわりと浮いていたのだ。
フェンスを掴む間もなかったのだろう。今、まさに、下に落ちそうになっている。
「やまもん! 危ない!」
僕は幼馴染の少女が悲鳴をあげるより早く、左手で彼女の傷ついた左腕を掴んで、そのまま力の限り引き上げた。
引き上げてからの数分間、幼馴染の少女はがたがたと震え、しばらくその場に座り込んで動かなかった。
「落ち着くまで、側にいるから」と僕が慰めると幼馴染の少女は小さく「――うん」と頷き、膝に顔を埋めて、やがて大きく、声を上げて泣いた。
幼馴染の少女はそれから数十分泣き続けた。そして泣き疲れたのか、膝に埋めていた顔をあげ、制服の袖で涙と鼻水を拭った。
「死ぬのって、怖いね……」
「うん、すごく怖いよ」
僕は慰めるように優しく言った。
僕は安心した。間一髪で助けることができたことと、幼馴染の少女が本当は生きていたいと思っていたことに安心した。
「ほら、ティッシュ」
僕はポケットからポケットティッシュを取り出し、幼馴染少女に差し出した。
「って、もう意味ないか」
「そんなこと、ない」
幼馴染少女は僕からポケットティッシュを受け取り、二、三枚取り出して涙と鼻水で汚れた袖を拭いた。
しかし、それで汚れが落ちることはなく幼馴染の少女は落胆しながらティッシュを丸め、そのまま夕焼けに向かって投げた。
その様が俄かにおかしく思えて僕はくすりと笑った。
「何笑ってるのよ」
幼馴染の少女が不機嫌そうに言った。
「――いや、別に」
カラスや蝙蝠が忙しなく夕焼けを舞っているのを僕らは無言で眺めた。
――あんな風に飛べたら、こんな高いところもきっと怖くなくなるんだろうな。
「ねえ、君。僕は――」
僕が話そうとすると幼馴染の少女は手をあげてそれを制した。
「なに? どうしたの?」
僕は幼馴染の少女に尋ねた。すると彼女はふうと静かに息を吐き、
「渾名、本当は今でも好きだよ」
やまもんは恥ずかしそうに、小さく言った。
僕らはフェンスにもたれて夕焼けの中を颯爽と飛ぶカラスや蝙蝠たちを眺めていた。
両親の話をしているときの幼馴染の少女の表情は半ば諦め似た表情で、見ていると胸が非常に苦しくなった。
幼馴染の少女の両親は所謂仮面夫婦だったらしい。
まだ幼馴染の少女が幼い頃に、父親があろうことか浮気をし、当然母親は激怒した。
普通ならば、そのまま即離婚は必至だろう。けれど、離婚にまで発展しなかった。なぜなら一人娘の存在があったからだ。だから彼女の両親は離婚に踏み切れずにいたようだ。
――そうだったのか。
幼馴染の少女は今までの幸せだった時間が全て嘘だったことを、ふとしたときに気付いてしまった。いや、気付かされてしまった。そして、心に大きな傷を負わされた。縫っても縫っても修正がきかないほどに。
「とりあえず、聞いてくれてありがとう」
幼馴染の少女が力なく笑った。
「本当に、なんだったんだろうね。私の今までって」
僕は、何も言葉をかけてあげることができなかった。
「私がいたから離婚できなかったって、それってまるで私が邪魔だったみたいな感じだよね」
僕はただ黙って幼馴染の少女の言葉を聞いていた。
「結局今になって二人とも我慢できなくなっちゃって爆発して、それから毎日喧嘩ばかり。それを毎日見せられる私の身にもなれって話だよ」
幼馴染の少女が俯きながら言う。
「おかげで私はこんなになっちゃったしね」
幼馴染の少女が左手首の、まだ新しい傷を撫でながら言った。
「結局、私が弱いのかな。私が悪いのかな。私がいなかったら二人はすんなり別れることができたよね、きっと」
「……それは――」
「ん? なに?」
幼馴染の少女が僕の顔を覗き込む。
「や――、君は悪くないと、思うよ」
危うく呼び慣れた渾名で呼びそうになり慌てて訂正したが、幼馴染の少女がそれに気付かないわけがなかった。
「その渾名、昔は好きだった。初めて付けられた渾名だし、初めて仲良くなった子、陽ちゃんが付けてくれた渾名だしね。でもね、今は違う。寧ろ嫌いかもしれない。呼ばれるだけでお父さんやお母さんを連想して辛くなるから」
「そうだよね。ごめん……」
僕は俯きながら謝った。
「あんた、本当に変わってないよね。そういう後ろ向きなところ」
僕は何も言い返すことができず、ただ俯き黙って無機質なコンクリートを眺めていた。
「まあいいや。私、そういうところ含めてあんたのこと、嫌いじゃなかったし」
幼馴染の少女の顔に若干明るさが戻ってきた。
「昔は弟みたいで可愛くて、背も私より低くて、泣き虫だった陽ちゃんが、今じゃすっかり顔つきも変わって、背も伸びたよね」
悪戯っぽく微笑みながらも静かな眼差しで夕焼けを見つめながら少女は言った。
「私、あんただけは味方だって信じてた。『大切な約束』を覚えているってずっと思ってた」
「ごめん、僕――」
「別にいいよ、もう。なんだかんだ思い出してくれたし、必死に私を死なせまいと頑張って説得してくれたし。それに、一緒に死ぬとまで言われたら、ね」
僕は先ほど言った自分の言葉を思い出し、赤面し、それを幼馴染の少女に悟られぬよう膝に顔を埋めた。
僕の言葉が、思いが彼女にしっかり伝わっていた。それが、何より嬉しかった。
だが、それと同時に、僕は自分を嫌いになりかけていた。今回のことで自分が最低な奴だとわかってしまったからだ。
約束を簡単に忘れ、それを本人に指摘され、泣きじゃくり、根負けしてもらい、許してもらう始末。まるで子供のようだ。まるで『大切な約束』を交わす以前の頃の僕と同じだ。いや、寧ろそれ以下かもしれない。成長したのは身長と年齢くらいだろう。
そう思うと顔の熱が引き、代わりに目から涙が溢れてきた。やはり、泣き虫陽ちゃんは今も健在だ。呼ばれても仕方がない。
「あんた、泣いているでしょう?」
幼馴染の少女が悪戯っぽく言った。
「べ、別に泣いてないよ」
僕は涙を慌てて拭いながら言った。
「ハンカチならあるよ?」
幼馴染の少女がポケットから水色の綺麗なハンカチを取り出し、僕に差し出してきた。
僕はそれを受け取らず、涙で赤くなった目を隠すようにそっぽ向いた。
「別に、いらないよ」
「そう? それならいいんだけどさ」
幼馴染の少女がハンカチをポケットに戻しながら言った。
優しさに触れるたびに幼い頃の思い出が蘇る。そういえばさっきの水色のハンカチには覚えがある。
過去を懐かしみながら、僕は思った。
僕は、僕を変えたい。いつまでも幼馴染の少女の優しさに甘えていてはいけないと思った。
傷つけた分、これからはそばにいてあげようと思った。
一度は忘れ、破ってしまったあの時の、単純だけどそれでいて『大切な約束』を、数年越しに守ろうと思った。いや、守りたいと思った。
「――ねえ」
僕は意を決して問いかけた。
「なに?」
「あのさ、また一緒にいてもいいかな」
精一杯の勇気を振り絞って僕は言った。
「それ、さっきも聞いたよ」
「――え?」
「私が飛び降りようとしてるとき、言ったじゃない。今度こそピンチに駆けつけるからって。もしかして覚えてないの?」
「ごめん。あのときは、その、必死だったから」
僕は頬を掻きながら言った。
「陽ちゃんってそういうところあるよね。我を忘れるってやつ? 自覚ある?」
「それなりには?」
僕は疑問形で答えた。
――そっか。僕はそんなこと言っていたんだ。
「そ、それで、答えは?」
僕は恐る恐る問いかけた。幼馴染の少女は少し考え込む仕草をし、やがてはっきりとした声で言った。
「いいよ。改めて、今度こそ約束だよ?」
「うん! ありがとう!」
僕は勢いよく立ち上がりながら言った。
「うわ、いきなり立ち上がったら危ないよ!」
幼馴染の少女も立ち上がって僕を支えようとする。
その時だった。
先ほどまでとは比べ物にならないほどの突風がいきなり僕らを襲った。
危うく落ちそうになり、僕は右手で後ろのフェンスを反射的に掴む。
冷汗が全身から湧き出て、夏だというのに寒気がした。
だが、ある光景を見てその寒気がさらに大きくなった。
幼馴染の少女の身体が宙にふわりと浮いていたのだ。
フェンスを掴む間もなかったのだろう。今、まさに、下に落ちそうになっている。
「やまもん! 危ない!」
僕は幼馴染の少女が悲鳴をあげるより早く、左手で彼女の傷ついた左腕を掴んで、そのまま力の限り引き上げた。
引き上げてからの数分間、幼馴染の少女はがたがたと震え、しばらくその場に座り込んで動かなかった。
「落ち着くまで、側にいるから」と僕が慰めると幼馴染の少女は小さく「――うん」と頷き、膝に顔を埋めて、やがて大きく、声を上げて泣いた。
幼馴染の少女はそれから数十分泣き続けた。そして泣き疲れたのか、膝に埋めていた顔をあげ、制服の袖で涙と鼻水を拭った。
「死ぬのって、怖いね……」
「うん、すごく怖いよ」
僕は慰めるように優しく言った。
僕は安心した。間一髪で助けることができたことと、幼馴染の少女が本当は生きていたいと思っていたことに安心した。
「ほら、ティッシュ」
僕はポケットからポケットティッシュを取り出し、幼馴染少女に差し出した。
「って、もう意味ないか」
「そんなこと、ない」
幼馴染少女は僕からポケットティッシュを受け取り、二、三枚取り出して涙と鼻水で汚れた袖を拭いた。
しかし、それで汚れが落ちることはなく幼馴染の少女は落胆しながらティッシュを丸め、そのまま夕焼けに向かって投げた。
その様が俄かにおかしく思えて僕はくすりと笑った。
「何笑ってるのよ」
幼馴染の少女が不機嫌そうに言った。
「――いや、別に」
カラスや蝙蝠が忙しなく夕焼けを舞っているのを僕らは無言で眺めた。
――あんな風に飛べたら、こんな高いところもきっと怖くなくなるんだろうな。
「ねえ、君。僕は――」
僕が話そうとすると幼馴染の少女は手をあげてそれを制した。
「なに? どうしたの?」
僕は幼馴染の少女に尋ねた。すると彼女はふうと静かに息を吐き、
「渾名、本当は今でも好きだよ」
やまもんは恥ずかしそうに、小さく言った。