夢のなかの彼女

   2


 付き合い始めてから約二か月が過ぎたある日、やまもんに異変が起きた。誰に対しても、僕に対しても塞ぎがちになり、挙句、七月の始めから不登校となってしまった。
 そしてそのまま一学期が終わり、夏休みを迎えた。
 幼馴染であり、恋人でもある僕は当然心配した。理由を本人に確かめようとしたが、家を訪ねてもやまもんの母親が「娘は逢いたくないそうです」と言うばかりで、結局顔を見ることも、話すこともできなかった。
 電話やメール等にも反応を示さなかった。
 それでも、僕はやまもんからの反応を辛抱強く待った。


 あと三日で八月になろうとしていた。その日は雨が激しく降っていた。
 夕方、僕は適当なニュース番組を見て暇を潰していた。
 誰が殺されたとか、どこが渋滞しているかとか、そんなニュースを僕は機械的眺めた。
 ニュースの内容はやがて天気予報に変わった。
 お天気レポーターの若い女性が傘を指し、時折横殴りの雨に打たれながらも笑顔で報道していた。
 背景には灰色の空と雨風にさらされている人々の姿が写っていた。
『本日は台風により、各地で大雨が降ることでしょう』
 どうりで雨が強いわけだ。それにしても、この女性はなぜここまで台風を笑顔で報道できるのだろうか。
 雨は人の心を、少なくとも僕の心を憂鬱な気分させる。当然僕は雨が好きではない。雨が好きな人なんてどうかしていると思うくらいだ。
 突然携帯電話が鳴り響いた。急いで画面を開き番号を確認すると、それはやまもんの電話番号だった。
 嫌な予感がした。
 それは、今までに感じたことのないくらい嫌な予感だ。
「もしもし? やまもん?」
 電話口から声が聞こえなかった。
 不穏な空気が流れる。
 電話の向こうにいる、やまもんの表情を懸命に想像した。
「もしもし? やまもん?」
 僕はもう一度呼びかけた。
 数秒間の沈黙の後、微かだが、すすり泣く声がしたのを僕の耳は聞き逃さなかった。
 どうやら、予感は的中してしまっていたようだ。
「もしもし? やまもん? どうしたの?」
 どんなに呼びかけてもやまもんはすすり泣くばかりで、一向に言葉を発さなかった。
 焦ってはいけないと思い、僕はやまもんが落ち着いて話せるようになるまで、無言のまま携帯電話を耳に押し当てていた。
 僕が電話に出てから十分が経とうとしていた時、ようやくやまもんがか細い声で話し始めた。
「離婚、決まったよ……」
「――いつ?」
 僕は忙しく動く自分の心を鎮めながら、静かに尋ねた。
「結構前、だよ……」
 やまもんの声はスマートフォンのボリュームを最大か、それ以上にしないと聞こえないくらいか細い声で言った。
「結構前って?」
「私が、学校に行かなくなった頃って言ったほうが分かりやすい、かな……」
 それは確かにとても分かりやすい返答だった。
 学校に来なくなったのは七月に入ってすぐだったから、一ヶ月ほど前には既に決まっていたようだ。
「今まで連絡できなかった理由はそれかい?」
 僕はできるだけ平静を装って言った。ここで僕が慌てたらやまもんを余計に不安にさせてしまうと思ったからだ。
「うん…… ごめんね……」
「――そういう時は、相談してよ」
 僕はできるだけ優しい口調でやまもんに言った。
「うん…… 本当に、ごめんね……」
「謝らなくていいよ。辛かったんだろ? 言いにくいことをわざわざ言ってくれてありがとう」
「うん……」
「それで、やまもんはどうなるんだ?」
 僕は一番肝心なことを尋ねた。
 言ったあとに、僕ははっとした。
 あとで聞かなければ良かったと後悔することになるだろう。
 きっと、これは地雷だ。
 やまもんは僕の質問に対して悲鳴交じりの号泣で答えた。
 僕はあの日、やまもんが屋上で言っていた言葉を思い出す。
『どちらが私を引き取るかで揉めてるんだ』
「やまもん? やまもん?」
 何度呼びかけても、やまもんは泣き止まない。
「やまもん、落ち着いて。大丈夫だから」
 僕はやまもんを泣き止ませようと懸命になった。
「大丈夫だから、泣かないで」
 なにが大丈夫なのか、わからなかった。
「ごめん…… ごめんね……」
「やまもん、今どこにいるんだ?」
 僕は彼女の居場所を尋ねた。
「神社……」
 やまもんはしゃくり上げながら、そしてそれを懸命に堪えながら答えた。
 その声の後ろ側で激しい雨音がする。
『本日は台風により、各地で大雨が降ることでしょう』
 さきほどのお天気リポーターの報道が頭に過ぎった。
「分かった。すぐそっちに行くから、そこで待ってて!」
 僕は電話を切った後、素早く支度し、傘を二本持って勢いよく外へ出た。
 大雨がまるで僕を妨害するかの如く降っている。
『本日は台風により、各地で大雨が降ることでしょう』
 ――そういえば、今回の台風は何号目だったっけ?
 いや、そんなことはどうでもいい。
 傘を差しながら僕は懸命に走った。横殴りの雨のせいか、傘はその機能を全く果たしていなかった。
 やまもんが待つ神社に着く頃には、胸部から下はほとんど濡れてしまっていた。傘も風に煽られ、骨が折れてしまっていてほとんど使いものにならなくなってしまっている。
 雨に濡れて独特な匂いを放つ木々達に囲まれたその境内は、俗世間とは完全に隔離された異質なオーラを放っていた。
 境内の正面、賽銭箱に通ずる階段に人影を捉えた。
「やまもん!」
 僕はズボンの裾に泥が飛び付くのを気にせずやまもんのもとへ走り寄った。
「やまもん、大丈夫?」
 それが愚問だとわかっていた。だが、今の僕にはそれ以外にかける言葉を見つけることができなかった。それがとても情けなくてならなかった。
「大丈夫じゃ、ないよ……」
 やまもんが力なく言った。
「……だよね」
 僕も肩を落としながら言い、やまもんの隣に腰を下ろす。
「こんなに雨降ってるのに、よく来たね」
 やまもんの目は、泣いていたせいか、赤く腫れていた。
「それは、お互い様だよ」
 僕はにっこり笑って見せた。
「約束、したからね」
「律義だね」
「一度破ってるから、罪滅ぼしなのかもしれない」
「その言葉の返し方、ひねくれてるね」
「それもお互い様だよ」
 僕は笑った。
 壊れた傘を閉じようとしたが骨が曲がっているせいでうまく閉じることができなかった。
「本当に、律義だね」
 やまもんは小さくそう言った。
 ふとやまもんの方へ目をやる。さきほど電話越しで号泣していたこともあって、彼女が心の中で何を考えているのか、何があったのか、知りたくて知りたくて仕方がなかった。
「――なあ」
「なに?」
「一体、何があったんだ?」
「離婚が正式に決まったの」
 やまもんは静かに言った。
「それはさっき聞いたよ。僕が聞きたいのはそれでやまもんがどうなるのかって話だよ」
 僕はやまもんから事前に話を聞いていた。彼女の両親がどちらも彼女を引き取ることに頑なに渋っていた事。それ故に、彼女のこれからの動向がどうしようもなく気になった。
「結局、どうなるんだ?」
「お母さんに引き取られることになった」
 やまもんは、ゆっくりと言った。
「――そうなんだ」
 まあ、妥当だろうと思った。
「それでね、私、引っ越すことになったの。かなり遠くにあるお母さんの実家に」
 やまもんが静かに言った。
「――え?」
「私がこの町にいられるのは七月一杯まで。あと三日間だけなの」
「なん、で?」
 当然、僕は混乱した。
 信じられなかった。
 ――冗談だろ。
「冗談、だろ?」
 心の声が、気が付けば漏れてしまっていた。
 さすがに急すぎると思った。
「冗談じゃないよ。今住んでいる家も売るんだってさ」
 やまもんは俯きながら、時折涙ぐみながら言った。
 話があまりにも現実味を帯びている。
「いきなり言われても、どうすればいいのか分からないよね。私だってまだ理解できてないよ」
 やまもんは膝に顔を埋めながら、静かに泣き始めた。
 ついにやまもんの両親が離婚する。
 屋上でこの話を聞いてから、いつかはくると思っていたが。
 どうすれば、いいのだろうか。
 やまもんは僕が何を思っているのか悟った様子で「どうしようもできないよ」と顔をあげながら力なく笑った。彼女の瞳から涙が一滴、頬を伝って、落ちて割れた。
 何もできない自分に、腹が立った。
 気の利いた言葉すらかけてやれない自分に、腹が立った。
「でも……」
「仕方ないよ」
「でも、さ……」
「陽ちゃん」
 やまもんがまるであやすような口調で僕の名前を呼んだ。
「なに?」
「陽ちゃんの陽は?」
「え?」
 やまもんの突然の言葉に僕は戸惑った。
「だから、陽ちゃんの陽はなに?」
「太陽の陽、だけど」
 僕は訝しく思いながらも答えた。
「だったら、笑わないと」
 やまもんは笑った。いつか見たように、笑った。
「ほら、こういう時こそ、笑おうよ」
 その笑顔には諦めの文字が書いてあった。
 励まさなければいけない僕が、逆に励まされてしまった。
 僕は、笑えなかった。
 笑えるはずがなかった。
 その後、徐々に雨は弱まり、僕らは僕の持ってきた折れていない一本の傘を使い、互いに神社の境内を出た。
 傘が小さいせいか、僕の左肩と、やまもんの右肩は、どちらもずぶ濡れだった。
 折れてしまったもう一本の傘は道中のゴミ捨て場に乱暴に投げ捨てた。
「陽ちゃん」
 やまもんは自宅の前に着くと、彼女は中に入らずに立ち止まり僕の名前を呼んだ。
「なに?」
「私達、離れても一緒だよね?」
「当たり前だろ」
 僕は言った。
「メールたくさんするし、電話だって――」
 僕が言い終える前に、唇を塞がれた。
 びっくりして僕は思わず持っていた傘を落としてしまう。
 僕らの体が雨にさらされた。
 やまもんの柔らかい手の感触が唇を支配する。
 それは今まで感じたことのあるどの感触よりも気持ちが良いものだった。
 そして、やまもんが僕の顔に自分の顔を近づける。
 数十分か、それとも数分か。いや、数秒だったかもしれない。
 やまもんが僕の頬に、キスをした。
「まだ、したことなかったからね」
 やまもんが俯きながら言った。その表情は、どこか虚ろだった。
「こういうこと、本当はもっとたくさんできたはずなのにな」
 やまもんはそう言い残して、僕を置き去りにして家の中に入ってしまった。
 あと三日間、僕に何ができるだろうか。
 できれば、引っ越しを阻止したい。
 けれど、中学生の僕に何ができるはずもなかった。
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