夢のなかの彼女
 結局、何も思いつかないまま三日間が過ぎた。
 8月1日。天気は晴天だった。僕らの、僕の心とは違い、晴天だった。
 僕は泣きながらやまもんを、大切な人を強く抱き締めた。
「痛いよ、陽ちゃん」
 やまもんは言いながらも強く抱き締め返してきた。
「もっと、もっと一緒にいたいよ」
 僕は手で涙を拭いながら言った。だが、拭っても拭っても涙が止まることはなかった。
「陽ちゃん、陽ちゃんの陽はなんだっけ?」
 やまもんが言う。
 こんな時に笑うなんて、できるはずなかった。けれど、笑わないと彼女は余計に僕のことを心配する。
 僕は、笑った。
 泣きながら、笑った。
「太陽の陽ちゃんは笑っていないとだめなんだからね」
 やまもんは泣くのを堪えながら言った。
「うん……」
 僕はもう一度、さきほどよりも強くやまもんを、世界で一番大切な人を抱きしめた。
「ごめんね……」
 やまもんが耳元で囁いた。その言葉を聞いて僕は関が切れたように泣いた。
「陽ちゃんの陽は?」
「……太陽の陽だよ」
 僕はしゃくりあげながら言った。
 目の端には早くしてほしいと言わんばかりにやまもんの母親がちらちらとこちらを見ている。
 僕はやまもんの母親を睨んだ。すると、それに気づいたのだろうか。何か言いたげな顔をしながらも車に乗り込んでしまった。
 思い切り殴り倒してやりたい衝動にかられたが、そんなことやまもんはきっと、いや、確実に望んではいないだろう。
「じゃあ、お母さんが待ってるから」
 いよいよ、僕は泣き崩れた。
「嫌だよ……」
 溢れる涙を拭いながら、鼻水を垂らしながら言った。
「行かないでよ……」
 泣き虫陽ちゃんと呼ばれてもよかった。やまもんが傍にいてくれれば、それだけでよかった、のに……。
「わがまま、言わないでよ」
 やまもんが言った。
「私まで、泣いちゃうじゃん」
「やまもん?」
「我慢してたのに…… 私だって、嫌だよ……」
 やまもんが手で顔を覆って泣き始めた。
「ごめん……」
「謝らないでよ……」
「本当に、ごめん……」
 ――なにもしてあげられなくて、ごめん……。
――最後まで泣き虫陽ちゃんで、ごめん……。
 車のエンジンがかかる音がした。
 エンジン音の主は、やまもんの母親の車だ。
「それじゃあ、もう行くね」
「うん……」
 僕は力なく言った。
「最後に――」
 やまもんが僕の顔に自分の顔を近づけ、そして、額にキスをした。
「また、ね」
 やまもんが一歩二歩と後ろへ下がり、そして車のほうへ振り返り、歩いていき、ドアを開けて車に乗り込んだ。
 車が動き出す。
 僕は立ち上がり、遠くなっていく車を見えなくなるまで、涙を流しながらずっと眺めていた。
 終始、僕は別れを惜しんで泣くことしかできなかった。
 泣き虫陽ちゃんは、今でも健在だった。


 その後、メールや電話のやり取りはあったが、逢えない辛さがかえってストレスになり、メールの文章は徐々に荒くなった。
 電話もやまもんの動向を探るようなしつこい内容になっていった。
 そんな関係が数日続いたある日、僕はついに別れを決断した。
 この辛さから一刻も早く逃れたかったのだ。
 やまもんは最初こそ「嫌だ」と言っていたが、僕が心中思っていることを打ち明けると、泣きながらも納得し、別れを受け入れてくれた。
 もしかしたらやまもんも同じ気持ちだったのではないかと、その時の僕は彼女の気持ちを自分の都合の良いように解釈してしまっていたのかもしれない。
 別れの電話を切ると、僕は深く溜息を吐いた。
 別れはやはり辛いものだが、やまもんと仲直りする前に戻ったと、屋上での一件以前に戻ったと思えばいいだけだと自分に言い聞かせた。
 けれど、そうはならなかった。
 夏休み最後の日、僕は何気なく部屋の掃除をしていた。
「ん? なんだこれ?」
 僕は荷物の中から小さな本のようなものを見つけた。
 中身を見てみると幼い頃の僕が写っていた。どうやら幼少時代のアルバムのようだ。
 こんな時期もあったなとパラパラめくっていると、不意にある写真が目に飛び込んできて、僕はページをめくる手を止めた。
 幼い頃の僕とやまもんが写っていた。おそらく小学校低学年の時の写真だ。『大切な約束』をした日の写真だ。
 僕は気付いた。
 また、約束を破ってしまったのだ。
 罪悪感と虚無感が僕を襲った。
 別れる前以上の辛さが僕を襲った。
 僕は重大な間違いを犯してしまったのだ。
 ただ自分が楽になりたいがために大切な人を、やまもんを傷つけ、『大切な約束』を知らず知らずのうちに再び破ってしまっていた。
 二度目の裏切りをしてしまった。
 心の底から悔やんだ。
 もう一度やり直したいと思った。
 僕はアルバムを放り投げ、スマートフォンを手に取った。そして、やまもんの携帯の電話番号を打ち込み、電話をかけた。
『この電話番号は、現在使われておりません』
 応答は、なかった。
 無機質な女性の声が耳に届くだけだった。
 番号を間違えたと思い、もう一度番号を押し直し、かけてみた。
『この電話番号は、現在使われておりません』
 何度かけても、やまもんの声を聞くことはできなかった。


 失った。
 失ってしまった。
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