夢のなかの彼女
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僕は授業中に体調が悪くなり、保健室へ立ち寄った。
ベッドで寝ようとしたとき、カーテンの隙間から、誰かがベッドの上で何かをしているのがちらと見えた。
覗くという行為に多少の罪悪感を覚えながらも、興味本位でカーテンの隙間から中を覗いてみた。
やまもんがいた。
右手にはカッターナイフが握られている。
左手首、その白い肌に赤い線の様なもの浮かんでいるのが見えた。
傷口だ。
カッターナイフ、手首の傷、その異様な組み合わせに該当するものは――。
「なにしてるんだよ!?」
僕は慌ててカーテンを開け、やまもんの右手を掴んだ。
やまもんの右手に握られていたカッターナイフがカシャンと音を立てて床に落ちる。
刃の先端についた血が保健室の白い床に小さな染みを作る。
「離してよ!」
やまもんはヒステリックに叫びながら僕の腕を振り払う。その力は弱々しいものだったが、彼女の必死の形相に驚き、反射的に手を離したじろいだ。
それから約一分ほど、僕らは沈黙した。その間、やまもんは僕を刺すように睨み続ける。その沈黙に耐えられなくなり、やがて僕は恐る恐る尋ねた。きちんと話すのは、恐らく一年かそこらぶりだろう。
「やまもん、リスカなんてしてるのか?」
「見ればわかるでしょ」
やまもんは、やはり敵意剥き出しの表情で僕を睨んだ。そして、カッターナイフを拾い、続きをしようとする。
「お、おい、何してるんだよ!?」
「だから見ればわかるって言ってるでしょ」
「どうしてこんなことしているのさ」
「うるさいな! 放っておいてよ! あとやまもんなんて言わないで! うざいよ」
「――でも」
「大体、この歳になってもまだそんな呼び方なんて、御坂君はいつまで経っても子供だよね」
やまもんは項垂れ、俯き、やがて無表情になり、淡々と不満を述べる。僕は御坂君と苗字で呼ばれたことと、まるで他人行儀なやまもんの態度にショックを覚え、心が痛くなった。
「そんなこと、言わなくても――」
僕は俯きながら言った。するとそれにイライラしたのだろうか、やまもんが声を荒らげながら口を開いた。
「なに? 呼び方も変わってないどころか、泣き虫陽ちゃんも変わってないわけ?」
「――それは……」
唯一、僕を泣き虫陽ちゃんと呼ばなかった人にそう呼ばれ、僕の心は更に痛くなった。
すごく、痛くなった。
それ以上に、やまもんの変わり様に驚いた。
「用がないのならさっさと出ていってよ。あんたがいると邪魔なのよ」
やまもんがうんざりといった表情で言う。
「やまもんって、――たよね」
思っていることがそのまま口に出てしまっていた。
僕ははっとして、やまもんの顔を恐る恐る窺った。
機嫌を、非常に損ねてしまったようだ。
「なにそれ!? あんたにあたしの何がわかるっていうの? 何にも知らないくせに知った風なこと言わないでよ! 泣き虫陽ちゃんのくせに!」
関が切れたように、やまもんが怒り任せに言葉を羅列し始める。
感情が暴走しているせいか、やがて発音も声量も滅茶苦茶になっていく。
もはや、何を言っているのか、まるでわからない。
やがて、やまもんは怒り疲れたのか、言葉の羅列を止め、静かに僕を睨んだ。
これ以上の長居はまずいと思った。
「あの――」
「なに?」
やまもんが肩で息をしながら、それでいて刺す様な目で睨みながら言った。
「ごめん……」
僕は一言だけ言い、やまもんが文句を言うより早く、逃げるようにベッドから離れ、保健室を出た。
『泣き虫陽ちゃんのくせに』
その言葉が脳裏に何度も蘇り、僕は廊下を歩きながら涙を流した。
一番呼んでほしくない人に嫌な渾名で呼ばれたからか、それとも、他の理由か。
――朗らかやまもんはどこ行ったんだよ……。
保健室を出て真っ先に向かったのは、教室ではなく屋上だった。今は授業中だから、誰もいないだろう。
今は、何も考えず一人でいたい。
階段を勢いよく駆け上がると頭がくらくらし始めた。
――そういえば、体調が悪かったっけ。屋上で少し休んだら早退しよう。
そんなことを考えながら屋上へ通ずる扉を開けた。
青空にはやたら大きな入道雲が浮かんでいる。
本格的に梅雨入りだなと思いながら錆びたフェンスにもたれた。
瞼を閉じると、脳裏にはやはりさっきのやまもんの顔が浮かぶ。リストカットまでしているのだから、きっと相当な悩みを抱えているのだろう。
僕は僕が先ほどやまもんに言った言葉を思い出していた。
『やまもんって、変わったよね』
少し疎遠にもなれば、人は知らず知らずのうちに変わるのだろうけれど、あの変貌ぶりは一体何なのだろうか。
――どうしたもんかな。
寝転がりながら、心のなかで呟いた。
やまもんは変わった。明らかに変わった。
――なんだかな。
夏が、もうじき訪れる。
閉じた目を開けると、青空が、太陽がムカつくほど眩しく感じられた。
太陽の陽太、名前をつけてくれた親には悪いけど、僕にその名前はやっぱり不釣り合いだ。
身体を大の字にして青空を泳ぐ入道雲を目で追う。
――あ、太陽が隠れた。いいぞ、入道雲。
僕は再び目を閉じて、そのまま眠ってしまった。
僕は授業中に体調が悪くなり、保健室へ立ち寄った。
ベッドで寝ようとしたとき、カーテンの隙間から、誰かがベッドの上で何かをしているのがちらと見えた。
覗くという行為に多少の罪悪感を覚えながらも、興味本位でカーテンの隙間から中を覗いてみた。
やまもんがいた。
右手にはカッターナイフが握られている。
左手首、その白い肌に赤い線の様なもの浮かんでいるのが見えた。
傷口だ。
カッターナイフ、手首の傷、その異様な組み合わせに該当するものは――。
「なにしてるんだよ!?」
僕は慌ててカーテンを開け、やまもんの右手を掴んだ。
やまもんの右手に握られていたカッターナイフがカシャンと音を立てて床に落ちる。
刃の先端についた血が保健室の白い床に小さな染みを作る。
「離してよ!」
やまもんはヒステリックに叫びながら僕の腕を振り払う。その力は弱々しいものだったが、彼女の必死の形相に驚き、反射的に手を離したじろいだ。
それから約一分ほど、僕らは沈黙した。その間、やまもんは僕を刺すように睨み続ける。その沈黙に耐えられなくなり、やがて僕は恐る恐る尋ねた。きちんと話すのは、恐らく一年かそこらぶりだろう。
「やまもん、リスカなんてしてるのか?」
「見ればわかるでしょ」
やまもんは、やはり敵意剥き出しの表情で僕を睨んだ。そして、カッターナイフを拾い、続きをしようとする。
「お、おい、何してるんだよ!?」
「だから見ればわかるって言ってるでしょ」
「どうしてこんなことしているのさ」
「うるさいな! 放っておいてよ! あとやまもんなんて言わないで! うざいよ」
「――でも」
「大体、この歳になってもまだそんな呼び方なんて、御坂君はいつまで経っても子供だよね」
やまもんは項垂れ、俯き、やがて無表情になり、淡々と不満を述べる。僕は御坂君と苗字で呼ばれたことと、まるで他人行儀なやまもんの態度にショックを覚え、心が痛くなった。
「そんなこと、言わなくても――」
僕は俯きながら言った。するとそれにイライラしたのだろうか、やまもんが声を荒らげながら口を開いた。
「なに? 呼び方も変わってないどころか、泣き虫陽ちゃんも変わってないわけ?」
「――それは……」
唯一、僕を泣き虫陽ちゃんと呼ばなかった人にそう呼ばれ、僕の心は更に痛くなった。
すごく、痛くなった。
それ以上に、やまもんの変わり様に驚いた。
「用がないのならさっさと出ていってよ。あんたがいると邪魔なのよ」
やまもんがうんざりといった表情で言う。
「やまもんって、――たよね」
思っていることがそのまま口に出てしまっていた。
僕ははっとして、やまもんの顔を恐る恐る窺った。
機嫌を、非常に損ねてしまったようだ。
「なにそれ!? あんたにあたしの何がわかるっていうの? 何にも知らないくせに知った風なこと言わないでよ! 泣き虫陽ちゃんのくせに!」
関が切れたように、やまもんが怒り任せに言葉を羅列し始める。
感情が暴走しているせいか、やがて発音も声量も滅茶苦茶になっていく。
もはや、何を言っているのか、まるでわからない。
やがて、やまもんは怒り疲れたのか、言葉の羅列を止め、静かに僕を睨んだ。
これ以上の長居はまずいと思った。
「あの――」
「なに?」
やまもんが肩で息をしながら、それでいて刺す様な目で睨みながら言った。
「ごめん……」
僕は一言だけ言い、やまもんが文句を言うより早く、逃げるようにベッドから離れ、保健室を出た。
『泣き虫陽ちゃんのくせに』
その言葉が脳裏に何度も蘇り、僕は廊下を歩きながら涙を流した。
一番呼んでほしくない人に嫌な渾名で呼ばれたからか、それとも、他の理由か。
――朗らかやまもんはどこ行ったんだよ……。
保健室を出て真っ先に向かったのは、教室ではなく屋上だった。今は授業中だから、誰もいないだろう。
今は、何も考えず一人でいたい。
階段を勢いよく駆け上がると頭がくらくらし始めた。
――そういえば、体調が悪かったっけ。屋上で少し休んだら早退しよう。
そんなことを考えながら屋上へ通ずる扉を開けた。
青空にはやたら大きな入道雲が浮かんでいる。
本格的に梅雨入りだなと思いながら錆びたフェンスにもたれた。
瞼を閉じると、脳裏にはやはりさっきのやまもんの顔が浮かぶ。リストカットまでしているのだから、きっと相当な悩みを抱えているのだろう。
僕は僕が先ほどやまもんに言った言葉を思い出していた。
『やまもんって、変わったよね』
少し疎遠にもなれば、人は知らず知らずのうちに変わるのだろうけれど、あの変貌ぶりは一体何なのだろうか。
――どうしたもんかな。
寝転がりながら、心のなかで呟いた。
やまもんは変わった。明らかに変わった。
――なんだかな。
夏が、もうじき訪れる。
閉じた目を開けると、青空が、太陽がムカつくほど眩しく感じられた。
太陽の陽太、名前をつけてくれた親には悪いけど、僕にその名前はやっぱり不釣り合いだ。
身体を大の字にして青空を泳ぐ入道雲を目で追う。
――あ、太陽が隠れた。いいぞ、入道雲。
僕は再び目を閉じて、そのまま眠ってしまった。