料理研究家の婚約レッスン
Lesson 0
 付きあってほしいと言ったのは、彼からだった。

 彼は、新卒で入社した会社の一年先輩。うれしくて、一言すらも口にできずに、ただただうなずいた。

 結婚してほしいと言ったのも、彼からだった。

 胸がいっぱいで、口を開けば泣いてしまいそうで、何度もうなずいた。

 会社を辞めてほしいと言ったのも、彼だった。同じ職場に夫婦がいると、異動させられるのは、決まって男のほうだからと。

 入社してまだ2年で辞めてしまうのは、もったいない気もしたけれど、たいした未練もなかった。それより、彼が希望する場所で働けるほうが大事だと思った。

 会社にできるだけ負担をかけないように、少し早いけれどきりの良い9月末日付けで退職した。職場のみんなに祝福されて、惜しまれて、花束をもらって見送られて、幸せだった。

 そして――。

 別れてほしい。

 そう言ったのも、彼からだった。

 結婚式まで3ヶ月をきっていたその日、招待客の最終確認をするつもりで、彼と会っていた。なじみのない、だだっぴろいカフェの片隅の日の当たらない席で、何十人も並んだゲストの名前の上を、彼の声が上滑りしていった。

 子どもができた。おまえの知らない女に。ごめん。梓とは結婚できない。

 理解できずに、聞き返した。泣いた。怒った。嘆いた。呆れた。すがった。

 でも、結果は変わらなかった。

 24歳の秋――河合(かわい)(あずさ)は、婚約者と仕事を失った。

 幸せの絶頂から突き落とされ、自分に残されたものは、もう何もないんだと思った。

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