料理研究家の婚約レッスン
「はい、ウェルバ・プロダクションです」
「……梓ちゃん?」
「弥生さん……! 具合どうですか?」
「うん……病院にも行ったし、大丈夫」
朝よりはいくらか落ち着いた声色に、ホッとする。
「良かった」
「それより、碧惟先生は?」
梓が下唇をかむわずかな間。その空白だけで、弥生が返事を悟ったことがわかった。
受話器を持つ手が震える。
「……弥生さん、ごめんなさい。わたしの力不足で……!」
「梓ちゃんのせいじゃないよ」
「本当に申し訳ありません……っ!」
座りながら、深く深く腰を折る。そのまま額とデスクがぶつかった。
「……ごめんなさい!」
「謝らないで」
いつもよりもわずかに硬い声に、弥生がどれだけ悔やんでいるかが伝わった。
それから梓が詳細を報告しても、弥生は梓を責める言葉を、決して口にしない。
そんな弥生に、碧惟は初めから断るつもりだったなどとは、とてもじゃないが、言えなかった。
「DVDもダメ、初心者向けもダメ、恋人設定もダメって、全否定だね。いいところなしか」
なんとも答えられない梓に、弥生は自嘲する。
「でもね、中上級者向けのただの料理本なら、今まで碧惟先生が出してきた本と何も変わらないの。わたしが出したいのは、これまでのクールで、ちょっと近寄りがたい碧惟先生とは違う姿なんだよ。
碧惟先生のファンの女の子たちは、碧惟先生を通して夢を見ているはずなんだ。あんなかっこいい人が、自分のために料理を作ってくれたら、つきっきりで料理を教えてくれたらって。
眠る前の23時にわざわざチャンネル合わせている人たちは、碧惟先生がテキパキ料理するのを眺めながら、そんな夢を見ているはずなの。仕事とか家事とか勉強とかで疲れ果ててもね、一日の最後にいい夢を見ながら眠ろうと思ってるはずなんだよ」
「……もしかして、弥生さんもそうなんですか?」
やけにリアリティのある空想だが、弥生は新婚だ。
それに、弥生がテレビの前でキャーキャー言っている姿は、想像がつかなかった。
梓の困惑を感じ取ってか、弥生は小さく笑う。
「本を買ってくれる人の気持ちを想像するのは、編集者の仕事だよ。もちろん、わたしも碧惟先生の番組は大好き。先生の手さばきを見ていると、心の中まで整理されたような気分になるんだ。
アシスタントをしてるモデルの湖春も健康的で、美容の知識が豊富。『美人メシ』という番組タイトルどおり、見ているだけで美人になった気になれるよね。
でも、番組の公式ブックは、もう出版されてる。今回は、違う角度で出海碧惟の良さを伝えたかったんだけど……」
弥生の声が、涙でにじむ。
どんなときでも穏やかな姿しか見せたことのなかった弥生が、涙ぐむほどの強い思いをこの企画に持っていたとは、何度も弥生の話を聞いていたはずのに、本当には理解できていなかった。
弥生は、いつも梓を助けてくれた。
初めてのアルバイトに戸惑っていた梓を優しく指導してくれ、バイトの後には何度もカフェに連れて行ってくれた。単位が取りやすい講義やテストの過去問を教えてくれる一方で、希望のゼミに入るには1年生のうちから、しっかり勉強しておかなければいけないことも教えてくれた。卒業して弥生が東京に出てからも、何くれと気にかけてくれ、弥生が帰省するたびに会ってくれた。
今回のことだってそうだ。このアルバイトに弥生が誘ってくれなかったら、梓は実家で、いつ終わるともしれないすさんだ生活を、ダラダラと続けていただろう。
もうすっかり傷が癒えたとは、さすがに言い切れないけれど、弥生の言うとおり、東京での初めての一人暮らしと初めての転職は、気分転換にはもってこいだった。毎日をどうにかこなすだけで精一杯で、余計なことを考える暇もない。
それが、梓にとって良かったのだろう。弥生のように体調を崩すこともなく、梓の体は元気だ。
弥生に、これまでの恩を返すときだと思った。
「……弥生さん。わたし、もう一度がんばります」
「えっ? どうやって?」
「……今は何も思いつきませんけど! でも、とにかくもう一度会ってもらいます。弥生さんの熱意を、きちんと伝えてきます!」
「そうは言っても、梓ちゃん……」
「弥生さんは、しっかり休んで、よく治してくださいね! そして……元気な赤ちゃんを産んでください」
「梓ちゃん、なんでそれを……」
「ごめんなさい。無理を言って、副社長から聞き出しました。弥生さん、ご懐妊おめでとうございます。わたし、弥生さんの分まで仕事をがんばりますから!」
弥生は戸惑っていたが、しっかり休んでくださいと言いくるめて、梓は電話を切った。
さて、どうするか――。
威勢よく啖呵を切ったものの、弥生は碧惟に会うまでに半年以上もかけている。そんな碧惟に、今日断られたばかりの梓が、すぐに再度アポイントが取れるとも思えない。
とりあえず、今日の礼のメールだけでもしてみようかと碧惟の名刺を探して、梓はあることに気づいた。
「……梓ちゃん?」
「弥生さん……! 具合どうですか?」
「うん……病院にも行ったし、大丈夫」
朝よりはいくらか落ち着いた声色に、ホッとする。
「良かった」
「それより、碧惟先生は?」
梓が下唇をかむわずかな間。その空白だけで、弥生が返事を悟ったことがわかった。
受話器を持つ手が震える。
「……弥生さん、ごめんなさい。わたしの力不足で……!」
「梓ちゃんのせいじゃないよ」
「本当に申し訳ありません……っ!」
座りながら、深く深く腰を折る。そのまま額とデスクがぶつかった。
「……ごめんなさい!」
「謝らないで」
いつもよりもわずかに硬い声に、弥生がどれだけ悔やんでいるかが伝わった。
それから梓が詳細を報告しても、弥生は梓を責める言葉を、決して口にしない。
そんな弥生に、碧惟は初めから断るつもりだったなどとは、とてもじゃないが、言えなかった。
「DVDもダメ、初心者向けもダメ、恋人設定もダメって、全否定だね。いいところなしか」
なんとも答えられない梓に、弥生は自嘲する。
「でもね、中上級者向けのただの料理本なら、今まで碧惟先生が出してきた本と何も変わらないの。わたしが出したいのは、これまでのクールで、ちょっと近寄りがたい碧惟先生とは違う姿なんだよ。
碧惟先生のファンの女の子たちは、碧惟先生を通して夢を見ているはずなんだ。あんなかっこいい人が、自分のために料理を作ってくれたら、つきっきりで料理を教えてくれたらって。
眠る前の23時にわざわざチャンネル合わせている人たちは、碧惟先生がテキパキ料理するのを眺めながら、そんな夢を見ているはずなの。仕事とか家事とか勉強とかで疲れ果ててもね、一日の最後にいい夢を見ながら眠ろうと思ってるはずなんだよ」
「……もしかして、弥生さんもそうなんですか?」
やけにリアリティのある空想だが、弥生は新婚だ。
それに、弥生がテレビの前でキャーキャー言っている姿は、想像がつかなかった。
梓の困惑を感じ取ってか、弥生は小さく笑う。
「本を買ってくれる人の気持ちを想像するのは、編集者の仕事だよ。もちろん、わたしも碧惟先生の番組は大好き。先生の手さばきを見ていると、心の中まで整理されたような気分になるんだ。
アシスタントをしてるモデルの湖春も健康的で、美容の知識が豊富。『美人メシ』という番組タイトルどおり、見ているだけで美人になった気になれるよね。
でも、番組の公式ブックは、もう出版されてる。今回は、違う角度で出海碧惟の良さを伝えたかったんだけど……」
弥生の声が、涙でにじむ。
どんなときでも穏やかな姿しか見せたことのなかった弥生が、涙ぐむほどの強い思いをこの企画に持っていたとは、何度も弥生の話を聞いていたはずのに、本当には理解できていなかった。
弥生は、いつも梓を助けてくれた。
初めてのアルバイトに戸惑っていた梓を優しく指導してくれ、バイトの後には何度もカフェに連れて行ってくれた。単位が取りやすい講義やテストの過去問を教えてくれる一方で、希望のゼミに入るには1年生のうちから、しっかり勉強しておかなければいけないことも教えてくれた。卒業して弥生が東京に出てからも、何くれと気にかけてくれ、弥生が帰省するたびに会ってくれた。
今回のことだってそうだ。このアルバイトに弥生が誘ってくれなかったら、梓は実家で、いつ終わるともしれないすさんだ生活を、ダラダラと続けていただろう。
もうすっかり傷が癒えたとは、さすがに言い切れないけれど、弥生の言うとおり、東京での初めての一人暮らしと初めての転職は、気分転換にはもってこいだった。毎日をどうにかこなすだけで精一杯で、余計なことを考える暇もない。
それが、梓にとって良かったのだろう。弥生のように体調を崩すこともなく、梓の体は元気だ。
弥生に、これまでの恩を返すときだと思った。
「……弥生さん。わたし、もう一度がんばります」
「えっ? どうやって?」
「……今は何も思いつきませんけど! でも、とにかくもう一度会ってもらいます。弥生さんの熱意を、きちんと伝えてきます!」
「そうは言っても、梓ちゃん……」
「弥生さんは、しっかり休んで、よく治してくださいね! そして……元気な赤ちゃんを産んでください」
「梓ちゃん、なんでそれを……」
「ごめんなさい。無理を言って、副社長から聞き出しました。弥生さん、ご懐妊おめでとうございます。わたし、弥生さんの分まで仕事をがんばりますから!」
弥生は戸惑っていたが、しっかり休んでくださいと言いくるめて、梓は電話を切った。
さて、どうするか――。
威勢よく啖呵を切ったものの、弥生は碧惟に会うまでに半年以上もかけている。そんな碧惟に、今日断られたばかりの梓が、すぐに再度アポイントが取れるとも思えない。
とりあえず、今日の礼のメールだけでもしてみようかと碧惟の名刺を探して、梓はあることに気づいた。