料理研究家の婚約レッスン
「……は?」
「新婚のお嫁さんに料理を教えてあげてください!」
「……バカじゃねぇの」
渾身の提案は、鼻で笑われた。
けれど、梓はひるまない。
「おかしいですか」
「ああ、おかしいね。なんだ、その売れないアイドルの動画みたいな設定は。
だいたい今どき、結婚も何もないだろ。しかも、新婚だなんだって浮かれてるやつなんて、そうそういないぞ。料理をしない人間より、はるかに少ない。そんな夢を見ているのは、無知なお子様くらいのもんだ」
そんなものなのかもしれない。相手の浮気にも気づかず、結婚できると浮かれていた梓は、子どもだったのかもしれない。
(――でも!)
「……結婚を夢見ちゃそんなにおかしいですか? 憧れたっていいじゃないですか!」
「おい……」
急に声を低くした梓に、碧惟がたじろくのにも構わず、調理台にバンッと両手をついた。
「本やDVDの中でくらい、かっこいい旦那様に料理を教えてもらえる夢に浸ったっていいじゃないですか!」
声はどんどん大きくなる。これまで出したことのないほどの大声だった。
「現実は大変なんだから、そのときくらい夢見たっていいじゃないですか! それでおいしい料理が作れるようになるんだったら、本当の彼氏がいなくたって楽しいですよ、きっと! そんな楽しみすら持っちゃいけないんですかっ!」
ゼーハーと苦しい息が、だだっ広いキッチンに響く。
「……笑って悪かった」
しばらく沈黙した後に、碧惟が言った。
テーブルにこぼれた涙に、面倒だと思われたのかもしれない。少し冷静さを取り戻した梓は、そう恥じた。
しかし、顔を上げた梓が見たものは、意外にも本気で困惑している碧惟の姿だった。梓の視線に気づいて、気まずそうに目線をそらす。
「本当に悪かったと思ってる。でも、俺には結婚の良さがわからない。したいと思ったこともないしな」
「……誰かに、ずっと傍にいてほしいと思ったこと、ないんですか。いなくなって寂しいと思ったこと、ないんですか」
詰め寄る梓に気圧され、碧惟が息をのむ。
「……ないってことは……ないか」
しぼり出された返答に、梓の胸の奥もギュッとしぼられた。
まだ性懲りもなく、寂しがっているのだ。もう二度と会いたくもないと思っているのに、まだ傍にいてほしいと思ってしまうのだ。
たとえ、今さら本当にそうされても困るだけだとわかっていても。
「おまえは? そんなに結婚したいのか」
今まで聞いたことのない、優しい声音だった。それにつられて、本音が出る。
「……したいです。相手はいませんけど」
(したかったです。できるんだと思ってたんです。世界一幸せな花嫁になれるんだと思ってたんです、何の疑いもなく)
ボタボタとテーブルに池が生まれる。湧き出る泉のように美しいものじゃない。澱のようにたまっていくだけの涙だ。
頬に、何かが当てられた。池の広がりが止まる。
目の前に来た碧惟が、布巾に梓の涙を吸わせている。少し雑なその仕草で、梓の顔は自然と持ち上げられた。
「そこまで言うなら、俺をその気にさせろ」
「……え?」
「今のままなら、新婚設定なんて無理。いくら撮影上の設定だとしても、うまくいく気がまったくしないし、レシピも浮かばない。だから……」
そこで碧惟は布巾を勢いよく持ち上げ、視線を上げた梓とまっすぐに目を合わせた。
「だから、おまえが俺の嫁になれ」
ポカンと薄く開いた梓の口に、残った涙が入りこむ。
「おまえが結婚の良さを俺にわからせてくれたら、その企画に乗ってやってもいい」
「そんな……なんてこと言うんですか……!?」
うまく息ができずに口を開閉し、唇をなめる。
しょっぱい。それで、少し気が戻った。
「あの……それなら、彼女さんで十分じゃないですか? 先生の好きな人のことを思い浮かべていただければ……」
「物わかりが悪いな。これまで、そういう気になったことがないって言ってんだろ。それに、付き合ってるやつもしばらくいないしな」
ますます混乱する梓に、碧惟は不敵な笑みを浮かべた。
「おまえが俺に、結婚の良さを教えてみろよ」
図らずもそれが梓の見た初めての、上っ面じゃない碧惟の笑顔だった。
「新婚のお嫁さんに料理を教えてあげてください!」
「……バカじゃねぇの」
渾身の提案は、鼻で笑われた。
けれど、梓はひるまない。
「おかしいですか」
「ああ、おかしいね。なんだ、その売れないアイドルの動画みたいな設定は。
だいたい今どき、結婚も何もないだろ。しかも、新婚だなんだって浮かれてるやつなんて、そうそういないぞ。料理をしない人間より、はるかに少ない。そんな夢を見ているのは、無知なお子様くらいのもんだ」
そんなものなのかもしれない。相手の浮気にも気づかず、結婚できると浮かれていた梓は、子どもだったのかもしれない。
(――でも!)
「……結婚を夢見ちゃそんなにおかしいですか? 憧れたっていいじゃないですか!」
「おい……」
急に声を低くした梓に、碧惟がたじろくのにも構わず、調理台にバンッと両手をついた。
「本やDVDの中でくらい、かっこいい旦那様に料理を教えてもらえる夢に浸ったっていいじゃないですか!」
声はどんどん大きくなる。これまで出したことのないほどの大声だった。
「現実は大変なんだから、そのときくらい夢見たっていいじゃないですか! それでおいしい料理が作れるようになるんだったら、本当の彼氏がいなくたって楽しいですよ、きっと! そんな楽しみすら持っちゃいけないんですかっ!」
ゼーハーと苦しい息が、だだっ広いキッチンに響く。
「……笑って悪かった」
しばらく沈黙した後に、碧惟が言った。
テーブルにこぼれた涙に、面倒だと思われたのかもしれない。少し冷静さを取り戻した梓は、そう恥じた。
しかし、顔を上げた梓が見たものは、意外にも本気で困惑している碧惟の姿だった。梓の視線に気づいて、気まずそうに目線をそらす。
「本当に悪かったと思ってる。でも、俺には結婚の良さがわからない。したいと思ったこともないしな」
「……誰かに、ずっと傍にいてほしいと思ったこと、ないんですか。いなくなって寂しいと思ったこと、ないんですか」
詰め寄る梓に気圧され、碧惟が息をのむ。
「……ないってことは……ないか」
しぼり出された返答に、梓の胸の奥もギュッとしぼられた。
まだ性懲りもなく、寂しがっているのだ。もう二度と会いたくもないと思っているのに、まだ傍にいてほしいと思ってしまうのだ。
たとえ、今さら本当にそうされても困るだけだとわかっていても。
「おまえは? そんなに結婚したいのか」
今まで聞いたことのない、優しい声音だった。それにつられて、本音が出る。
「……したいです。相手はいませんけど」
(したかったです。できるんだと思ってたんです。世界一幸せな花嫁になれるんだと思ってたんです、何の疑いもなく)
ボタボタとテーブルに池が生まれる。湧き出る泉のように美しいものじゃない。澱のようにたまっていくだけの涙だ。
頬に、何かが当てられた。池の広がりが止まる。
目の前に来た碧惟が、布巾に梓の涙を吸わせている。少し雑なその仕草で、梓の顔は自然と持ち上げられた。
「そこまで言うなら、俺をその気にさせろ」
「……え?」
「今のままなら、新婚設定なんて無理。いくら撮影上の設定だとしても、うまくいく気がまったくしないし、レシピも浮かばない。だから……」
そこで碧惟は布巾を勢いよく持ち上げ、視線を上げた梓とまっすぐに目を合わせた。
「だから、おまえが俺の嫁になれ」
ポカンと薄く開いた梓の口に、残った涙が入りこむ。
「おまえが結婚の良さを俺にわからせてくれたら、その企画に乗ってやってもいい」
「そんな……なんてこと言うんですか……!?」
うまく息ができずに口を開閉し、唇をなめる。
しょっぱい。それで、少し気が戻った。
「あの……それなら、彼女さんで十分じゃないですか? 先生の好きな人のことを思い浮かべていただければ……」
「物わかりが悪いな。これまで、そういう気になったことがないって言ってんだろ。それに、付き合ってるやつもしばらくいないしな」
ますます混乱する梓に、碧惟は不敵な笑みを浮かべた。
「おまえが俺に、結婚の良さを教えてみろよ」
図らずもそれが梓の見た初めての、上っ面じゃない碧惟の笑顔だった。