料理研究家の婚約レッスン
Lesson 2
3度目の訪問
勢い込んで碧惟のマンションに3度目の訪問を果たした梓は、すぐに途方に暮れてしまった。
会ったばかりの人間を自分の家に住まわせるなんて、ありえない。
ましてや、碧惟は有名人だ。世間にバレたらスキャンダルになるし、デメリットしかない。
本当に引っ越してくるそぶりを見せれば、さすがの碧惟も驚き、殊勝な言葉の一つでも聞けるのではないかと思ったのだ。梓の想定は、そこまでだった。
しかし、当然断ると思っていた碧惟は、どうしてだか梓を拒絶しない。
テレビでは、整った容姿につけ上がったようなクールなキャラが受けているらしいが、実際に相対した碧惟もなかなかだ。
「荷物がそれだけなんて覚悟が足りないんじゃないか?」
見くだすようにして──というのは、碧惟より20cm以上背が低い梓のひがみなのかもしれないが、見おろしながら言われると、ふつふつと闘志が湧いてくる。どこにそんな元気があったのかと、自分でも不思議に思う程だ。
「これでいいんです! 家具付きのマンションに先月引っ越して来たばかりだったので、実家から持ってきたのは、これだけなんですから」
梓の持ってきた数泊用の小ぶりのスーツケースと仕事用のショルダーバッグには、毎日使うような身の回りの品しか入っていないが、必要なものなんてこの程度だ。
マンスリーマンションに帰っても、残っているわたし財はたいしてない。東京にいつまでいるかわからなかったので、とりあえず持ってきたものだけだが、それでなんとか暮らせている。
「へえ。何か足りないものがあったら、言えよ。用意できるものなら、貸してやる」
碧惟は面白そうに笑って、玄関のドアを大きく開いた。
(どうしよう)
この玄関を入ってしまったら、もう逃げられない。部屋に入ってから「やっぱり帰ります」だなんて、言えるわけがなかった。
けれど、今さら「冗談でした」とも言えそうにない。碧惟は、梓が帰るなど露とも思っていないそぶりで、自然にスリッパを取り出してくれている。
子どもの頃から大した自己主張もしたことがなかった梓には、出した意地をどこで引っ込めて良いのかわからなかった。
結局、ことなかれ主義が勝った。
「……お邪魔します!」
それに、この仕事だけはがんばってみようと、決めたのだ。
梓はまだ何もしてない。逃げ出すには、早すぎる。
無理やりそう言い聞かせて、梓は碧惟の家へと足を踏み入れた。背後でドアが音を立てて閉まった瞬間、もう後悔しそうになってはいたけれど。
碧惟の家は、今日もきちんと掃除が行き届いていた。
テレビの豪邸訪問番組で見るような広い玄関と廊下に、今一度圧倒される。昨日は緊張していたせいで、ろくに目に入っていなかったのだ。
大理石のたたきには、何も出ていない。大きなシューズクローゼットは鏡面で、不安そうな顔をした野暮ったい女が映っていた。
梓だ。
まぶしいほど明るい照明の下で見る自分の姿に、梓はショックを受けた。
知っていたはずの自分とは、ずいぶん違う。
それは決して、自分を美化にしていたわけではない。数ヶ月前の姿とあまりに違うのだ。数ヶ月前、結婚目前で自分でも浮かれていると自覚していた頃の幸せそうな姿とは、別人のようだった。
少し前の梓は、ダイエットなんか意識しなくても、適度に引き締まっていた。前からぽっちゃり気味ではあったから自分なりではあったものの、それでも自然と体重は一定の範囲内に収まっていた。頬はピンクに染まり、肌はふっくらとしたハリがあったし、髪はブローに失敗してもツヤツヤしていた。
それが今は、いつの間にか目の下のクマは消えなくなってしまったし、吹き出物は治らない。メイクもあまりしなくなってしまったし、ひっつめ髪にまとめきれなかった切れ毛が飛び出ている。
(わたし、こんなにひどかった?)
体型から雰囲気から、見るからにドヨンとしている。煌々と照らされたライトの真下にいるのに、梓自身が影みたいだ。
その梓と鏡の間に、光が差した。
「ほら、スーツケースを貸せよ」
碧惟だった。
碧惟が視界に入っただけで、目の前が明るくなった気がした。
(これが、オーラっていうもの?)
そんな体験、初めてのことだった。
梓は呆然として見上げた。
目が合うと、碧惟は小首をかしげた。相変わらず、面白がるように瞳が光っている。
「早く上がれ」
催眠術にかけられたように、梓は言われるがまま靴を脱いだ。
会ったばかりの人間を自分の家に住まわせるなんて、ありえない。
ましてや、碧惟は有名人だ。世間にバレたらスキャンダルになるし、デメリットしかない。
本当に引っ越してくるそぶりを見せれば、さすがの碧惟も驚き、殊勝な言葉の一つでも聞けるのではないかと思ったのだ。梓の想定は、そこまでだった。
しかし、当然断ると思っていた碧惟は、どうしてだか梓を拒絶しない。
テレビでは、整った容姿につけ上がったようなクールなキャラが受けているらしいが、実際に相対した碧惟もなかなかだ。
「荷物がそれだけなんて覚悟が足りないんじゃないか?」
見くだすようにして──というのは、碧惟より20cm以上背が低い梓のひがみなのかもしれないが、見おろしながら言われると、ふつふつと闘志が湧いてくる。どこにそんな元気があったのかと、自分でも不思議に思う程だ。
「これでいいんです! 家具付きのマンションに先月引っ越して来たばかりだったので、実家から持ってきたのは、これだけなんですから」
梓の持ってきた数泊用の小ぶりのスーツケースと仕事用のショルダーバッグには、毎日使うような身の回りの品しか入っていないが、必要なものなんてこの程度だ。
マンスリーマンションに帰っても、残っているわたし財はたいしてない。東京にいつまでいるかわからなかったので、とりあえず持ってきたものだけだが、それでなんとか暮らせている。
「へえ。何か足りないものがあったら、言えよ。用意できるものなら、貸してやる」
碧惟は面白そうに笑って、玄関のドアを大きく開いた。
(どうしよう)
この玄関を入ってしまったら、もう逃げられない。部屋に入ってから「やっぱり帰ります」だなんて、言えるわけがなかった。
けれど、今さら「冗談でした」とも言えそうにない。碧惟は、梓が帰るなど露とも思っていないそぶりで、自然にスリッパを取り出してくれている。
子どもの頃から大した自己主張もしたことがなかった梓には、出した意地をどこで引っ込めて良いのかわからなかった。
結局、ことなかれ主義が勝った。
「……お邪魔します!」
それに、この仕事だけはがんばってみようと、決めたのだ。
梓はまだ何もしてない。逃げ出すには、早すぎる。
無理やりそう言い聞かせて、梓は碧惟の家へと足を踏み入れた。背後でドアが音を立てて閉まった瞬間、もう後悔しそうになってはいたけれど。
碧惟の家は、今日もきちんと掃除が行き届いていた。
テレビの豪邸訪問番組で見るような広い玄関と廊下に、今一度圧倒される。昨日は緊張していたせいで、ろくに目に入っていなかったのだ。
大理石のたたきには、何も出ていない。大きなシューズクローゼットは鏡面で、不安そうな顔をした野暮ったい女が映っていた。
梓だ。
まぶしいほど明るい照明の下で見る自分の姿に、梓はショックを受けた。
知っていたはずの自分とは、ずいぶん違う。
それは決して、自分を美化にしていたわけではない。数ヶ月前の姿とあまりに違うのだ。数ヶ月前、結婚目前で自分でも浮かれていると自覚していた頃の幸せそうな姿とは、別人のようだった。
少し前の梓は、ダイエットなんか意識しなくても、適度に引き締まっていた。前からぽっちゃり気味ではあったから自分なりではあったものの、それでも自然と体重は一定の範囲内に収まっていた。頬はピンクに染まり、肌はふっくらとしたハリがあったし、髪はブローに失敗してもツヤツヤしていた。
それが今は、いつの間にか目の下のクマは消えなくなってしまったし、吹き出物は治らない。メイクもあまりしなくなってしまったし、ひっつめ髪にまとめきれなかった切れ毛が飛び出ている。
(わたし、こんなにひどかった?)
体型から雰囲気から、見るからにドヨンとしている。煌々と照らされたライトの真下にいるのに、梓自身が影みたいだ。
その梓と鏡の間に、光が差した。
「ほら、スーツケースを貸せよ」
碧惟だった。
碧惟が視界に入っただけで、目の前が明るくなった気がした。
(これが、オーラっていうもの?)
そんな体験、初めてのことだった。
梓は呆然として見上げた。
目が合うと、碧惟は小首をかしげた。相変わらず、面白がるように瞳が光っている。
「早く上がれ」
催眠術にかけられたように、梓は言われるがまま靴を脱いだ。