料理研究家の婚約レッスン
Lesson 1
憂鬱
ぼうっとしているうちに、眠ってしまっていたようだ。
(喉かわいた)
寝続けていたかったが、梓は緩慢に起き上がった。本格的に眠るには、まだ早い時間だった。
目をこすると、手の甲にまつげと目やにがついた。小さくうめきながら、ティッシュでぬぐう。
ゴミ箱はいっぱいだ。こぼれ落ちないよう、注意してティッシュを載せる。
実家の2階にある自分の部屋から出ると、階下からはテレビの歌声に混じって、包丁を使う音が聞こえた。母が雑煮の準備をしているのだろう。
あくびを噛み殺しながら、階段を降ろうとしたところで自分の名が聞こえてきて、梓は足を止めた。
「梓は、何してんのよ」
「さあ」
「さあって、お母さん、手伝いもさせないで。あの子、仕事もしてないんでしょ?」
大げさにため息をついたのは、姉だ。夕方にはいなかったのに、梓が眠っている間に嫁ぎ先から帰省してきたのだろう。
「仕方ないでしょ。もう退職届けを出しちゃった後だったんだから」
婚約が破談になったのは、梓が退職した後だった。
梓は、階段の手すりをギュッと握り込む。
たとえ退職するつもりがなかったとしても、こんなことになってしまったのだ。遅かれ早かれ会社をやめてしまっていただろう。元婚約者と同じ職場になんて、いたくない。
「あれから何ヶ月経ったと思ってるの」
「そうねぇ」
2ヶ月だ。
自己都合退職だから、まだ失業保険は下りない。ハローワークには行って、就職活動をしているふりくらいはしているが、早く就職しなくてはいけないという焦りは、梓にはなかった。
実家にいれば、生活には困らない。腫れ物扱いだが、周囲を気にする余裕もなかったので、安心して部屋に引きこもっていられた。
「おじさんの家の新年会には、連れて行くんでしょ?」
「でも、梓は嫌がるんじゃないかしら」
「嫌がったって行かせなきゃ。親戚へのお詫びだって、全部お母さんたちに任せて、梓は何もしなかったじゃないの」
「そうねぇ」
「自分で謝らせなきゃダメよ。もう子どもじゃないんだから」
(でも、お姉ちゃん。なんでわたしが謝らなきゃなんないの)
梓はたまりかねて、部屋に戻った。
婚約は、相手から一方的に破棄された。梓には落ち度がない。
梓が結婚すると親戚に言いふらしたのは、両親だ。梓からは言っていない。招待状だって、出す前だった。
あの日、カフェに広げられた招待客リストを思い出して、梓は口元を押さえた。吐き気がする。
万年床と化したベッドに戻って体を丸めた。
この2ヶ月、ずっとこうして自分を守ってきた。
姉の言うように、結婚式場のキャンセルや、口頭ですでに披露宴へ招待していた親族への連絡、梓にとっては何のなぐさめにもならない慰謝料の受け取りといった婚約破棄にまつわるほとんどのことは、元婚約者と互いの両親がやってくれた。その間、梓は自分の部屋に閉じこもり、テレビを見たりゲームをしたりして、ぼんやりと過ごした。
言い訳すると、さっき思ったように「自分は悪くないから」という理由ではない。とても誰かと話したり、外出したりする気になれなかったからだ。体を動かそうにも、動かなかった。
それでも、体調の良い日には、元婚約者との思い出の品を捨てようと部屋を掃除したりすることもあった。そうしながら、とつぜん火がついたように泣いたりしたこともあった。
しかし、最近ではそんなあからさまな情緒不安定さは、収まってきている。
それに伴い、初めのうちは梓に同情していた家族の目も、だんだん厳しくなってきていた。
かと言って、キビキビ行動できるほどの元気はまだない。ましてや、デリカシーのない親戚の集まりなんて、まっぴらごめんだ。
それでも、あの姉の様子なら、引きずってでも連れて行かれてしまうだろう。優等生だった姉は、昔から自分にも梓にも厳しいのだ。
気を紛らわせようと、スマートフォンを手に取る。
(あれ……?)
さっきまでは届いていなかったメッセージに、梓はすがりつくように返信した。
(喉かわいた)
寝続けていたかったが、梓は緩慢に起き上がった。本格的に眠るには、まだ早い時間だった。
目をこすると、手の甲にまつげと目やにがついた。小さくうめきながら、ティッシュでぬぐう。
ゴミ箱はいっぱいだ。こぼれ落ちないよう、注意してティッシュを載せる。
実家の2階にある自分の部屋から出ると、階下からはテレビの歌声に混じって、包丁を使う音が聞こえた。母が雑煮の準備をしているのだろう。
あくびを噛み殺しながら、階段を降ろうとしたところで自分の名が聞こえてきて、梓は足を止めた。
「梓は、何してんのよ」
「さあ」
「さあって、お母さん、手伝いもさせないで。あの子、仕事もしてないんでしょ?」
大げさにため息をついたのは、姉だ。夕方にはいなかったのに、梓が眠っている間に嫁ぎ先から帰省してきたのだろう。
「仕方ないでしょ。もう退職届けを出しちゃった後だったんだから」
婚約が破談になったのは、梓が退職した後だった。
梓は、階段の手すりをギュッと握り込む。
たとえ退職するつもりがなかったとしても、こんなことになってしまったのだ。遅かれ早かれ会社をやめてしまっていただろう。元婚約者と同じ職場になんて、いたくない。
「あれから何ヶ月経ったと思ってるの」
「そうねぇ」
2ヶ月だ。
自己都合退職だから、まだ失業保険は下りない。ハローワークには行って、就職活動をしているふりくらいはしているが、早く就職しなくてはいけないという焦りは、梓にはなかった。
実家にいれば、生活には困らない。腫れ物扱いだが、周囲を気にする余裕もなかったので、安心して部屋に引きこもっていられた。
「おじさんの家の新年会には、連れて行くんでしょ?」
「でも、梓は嫌がるんじゃないかしら」
「嫌がったって行かせなきゃ。親戚へのお詫びだって、全部お母さんたちに任せて、梓は何もしなかったじゃないの」
「そうねぇ」
「自分で謝らせなきゃダメよ。もう子どもじゃないんだから」
(でも、お姉ちゃん。なんでわたしが謝らなきゃなんないの)
梓はたまりかねて、部屋に戻った。
婚約は、相手から一方的に破棄された。梓には落ち度がない。
梓が結婚すると親戚に言いふらしたのは、両親だ。梓からは言っていない。招待状だって、出す前だった。
あの日、カフェに広げられた招待客リストを思い出して、梓は口元を押さえた。吐き気がする。
万年床と化したベッドに戻って体を丸めた。
この2ヶ月、ずっとこうして自分を守ってきた。
姉の言うように、結婚式場のキャンセルや、口頭ですでに披露宴へ招待していた親族への連絡、梓にとっては何のなぐさめにもならない慰謝料の受け取りといった婚約破棄にまつわるほとんどのことは、元婚約者と互いの両親がやってくれた。その間、梓は自分の部屋に閉じこもり、テレビを見たりゲームをしたりして、ぼんやりと過ごした。
言い訳すると、さっき思ったように「自分は悪くないから」という理由ではない。とても誰かと話したり、外出したりする気になれなかったからだ。体を動かそうにも、動かなかった。
それでも、体調の良い日には、元婚約者との思い出の品を捨てようと部屋を掃除したりすることもあった。そうしながら、とつぜん火がついたように泣いたりしたこともあった。
しかし、最近ではそんなあからさまな情緒不安定さは、収まってきている。
それに伴い、初めのうちは梓に同情していた家族の目も、だんだん厳しくなってきていた。
かと言って、キビキビ行動できるほどの元気はまだない。ましてや、デリカシーのない親戚の集まりなんて、まっぴらごめんだ。
それでも、あの姉の様子なら、引きずってでも連れて行かれてしまうだろう。優等生だった姉は、昔から自分にも梓にも厳しいのだ。
気を紛らわせようと、スマートフォンを手に取る。
(あれ……?)
さっきまでは届いていなかったメッセージに、梓はすがりつくように返信した。