料理研究家の婚約レッスン
同居の条件★
夕食を終えると、梓が片付けを申し出た。
(元気そうだな)
碧惟は内心で安堵して、梓が皿を洗っている隣で紅茶を淹れる。
二つのカップを持ってテレビの前に据えられたソファに座る。ゆったりと足を組んでくつろいだ。
遅れてきた梓が、一人分あいだを空けて隣に座っても、まったく気にならない。それどころか、ますます気分が安らぐ。
(やっぱり人がいるといい)
ソワソワしていた梓も、食事をしているうちに、だいぶ落ち着いたようだ。
(いや、まだか?)
いただきますと小さく呟いてから、カップを口に運んでいる。それを観察してしまうのは、料理家としての習い性だ。
紅茶を少しだけ飲んだ梓は、わずかに浮かぬ顔をした。
(味は悪くなかったはずだが……あっ)
「砂糖いるか?」
「え?」と梓が聞き返す前に、碧惟は立ち上がっている。自分はいつもストレートだから、忘れていた。砂糖がほしかったのに、言い出せなかったのだろう。
「ミルクは? レモンもあるぞ」
「お砂糖だけ、お願いします」
シュガーポットを梓の前に置きながら、初めて訪ねてきたときはどうだったか思い出してみる。
詳しく覚えていないが、来客用には普段からシュガーポットとミルクを出しているはずだから、必要なら使っていただろう。
ようやくしっかりと紅茶を飲んだ梓は、碧惟なんかいないかのように、ホッと息をついていた。
しかし碧惟の心は和んでいく。うまそうに食事してくれる人がいるだけで、心は安らぐ。料理家とは、そういう人間だ。
その点、結局は出したものすべてを満足そうに平らげた梓は、傍に置く人間として及第点をクリアした。
ソファの肘当てに肘を立てて頬を載せ、梓がカップを半分ほど空けるのを、見るともなしに眺めていると、梓は突然背筋を伸ばして、カップをテーブルに置いた。
「あの……先生は、どうして同居なんて許したんですか」
生真面目そうな瞳が震えを隠すように揺れている。ぽっちゃりした頬がこわばっているのが、なぜだか残念に思えた。
「……しいて言えば、暇つぶしかな」
「暇つぶし……」
明らかに納得がいっていないという顔をしている。
ここまでわかりやすい人間も珍しい。ミスリードするように、わざと表情を作る人間もいるが、梓の場合はそういう打算が成功する人間には見えなかった。
碧惟に近づいてくる連中は引きも切らないが、単なるミーハーだって、もう少し気が回る。
だから、碧惟も少しだけ説明してやることにした。
「おまえが何か企んでいるようには思えなかったし。……ああ、この家には貴重品なんてないから、盗みをしようとしたって無駄だ。主だったものは、実家に置いてある。ここは、仮の家みたいなものだから」
「そうなんですか」
「だからって、俺と暮らしていることも、俺がここに住んでいることも、言いふらすなよ」
「もちろんです」
「知られると面倒だからな」
さすがに、梓が同棲相手だと吹聴されるのは、気が滅入る。同居人はほしいが、同棲相手はいらなかった。梓が女であり碧惟が男である限り、ただの同居人だと主張しても、すんなり受け入れられないであろうことは、さすがに碧惟にもわかる。
それに、料理教室の生徒に知られるのは避けたい。教師の女の部屋を毎度、通り過ぎているのかと思うのは、あまり気分の良いものではないだろう。
「それから、俺の寝顔なんか撮っても、写真誌になんかには売れないぞ」
「……売れそうですけど」
「せいぜいネットに流れるくらいだろ。大手のマスコミは相手にしないさ。熱愛発覚くらいなら、別にダメージにもならないしな」
「十分なりそうですが」
うんざりして、言い返す気にもなれない。
「この年で、恋人の一人もいないよりマシだろ」
そう言うのがやっとだった。
自分の立ち位置はわかっている。人気料理研究家・出海翠の一人息子として、脛をかじり続けている人生だ。
自分としては、イタリアで料理人として働いていた経験をもとにした本格的なイタリアンのレシピを買ってほしいのだが、若さとルックスで使ってもらっていることは認識している。
そして、それだけではいつまでもつものでもないことも、十分わかっていた。
物思いにふけりそうになったところを、梓が打ち破った。
「……でも、本当に恋人はいないんですよね?」
「ああ。文句あるか」
「いえ、ないです……」
梓は殊勝に否定したが、碧惟は鼻白んだ。決まった恋人がいるのに、よく知らない女を連れ込むほど節操なしではない。見た目から誤解されることが多いが、奔放なタイプではなかった。
「おうちにいさせていただく上で、ルールとかありますか?」
気を取り直したように、梓が尋ねた。
なんともわかりやすい話題変換だとは思ったが、見知らぬ男女がしばらく一緒に暮らしていくのだ。初めに確認しておいた方が良い。
梓は自分から言いだしたくせに、いまだに同居に戸惑っているようだが、碧惟は他人と一緒に暮らすのに慣れていた。
料理研究家の母は自宅で仕事をしていて、常に多数の人が出たり入ったりしていたし、イタリアでは下宿や寮住まいだった。日本に戻ってからも、つい最近まで同居人がいたのだ。
「そうだな……メシは、俺と同じで良ければ、用意できる」
「いえ、そんなことをしていただくわけには」
「いや、たいてい試作品の残りだから、もし良ければ、素人の意見を聞きたい」
仕事のスタッフ以外に、創作中の料理を出す機会が少なくなったのが、最近の小さな悩みだったことを思い出した。
梓は好き嫌いがないと言っていたし、実際に夕食も「おいしい」を連発して、きれいに平らげた。意見はズブの素人で、ボキャブラリーもまるでなかったが、自分なりの感想を言おうとする意気は伝わった。碧惟がいろいろと説明しても、面倒臭がらずにその都度真面目に聞いていたのもいい。
「……そういうことでしたら、ありがたくいただきます」
(元気そうだな)
碧惟は内心で安堵して、梓が皿を洗っている隣で紅茶を淹れる。
二つのカップを持ってテレビの前に据えられたソファに座る。ゆったりと足を組んでくつろいだ。
遅れてきた梓が、一人分あいだを空けて隣に座っても、まったく気にならない。それどころか、ますます気分が安らぐ。
(やっぱり人がいるといい)
ソワソワしていた梓も、食事をしているうちに、だいぶ落ち着いたようだ。
(いや、まだか?)
いただきますと小さく呟いてから、カップを口に運んでいる。それを観察してしまうのは、料理家としての習い性だ。
紅茶を少しだけ飲んだ梓は、わずかに浮かぬ顔をした。
(味は悪くなかったはずだが……あっ)
「砂糖いるか?」
「え?」と梓が聞き返す前に、碧惟は立ち上がっている。自分はいつもストレートだから、忘れていた。砂糖がほしかったのに、言い出せなかったのだろう。
「ミルクは? レモンもあるぞ」
「お砂糖だけ、お願いします」
シュガーポットを梓の前に置きながら、初めて訪ねてきたときはどうだったか思い出してみる。
詳しく覚えていないが、来客用には普段からシュガーポットとミルクを出しているはずだから、必要なら使っていただろう。
ようやくしっかりと紅茶を飲んだ梓は、碧惟なんかいないかのように、ホッと息をついていた。
しかし碧惟の心は和んでいく。うまそうに食事してくれる人がいるだけで、心は安らぐ。料理家とは、そういう人間だ。
その点、結局は出したものすべてを満足そうに平らげた梓は、傍に置く人間として及第点をクリアした。
ソファの肘当てに肘を立てて頬を載せ、梓がカップを半分ほど空けるのを、見るともなしに眺めていると、梓は突然背筋を伸ばして、カップをテーブルに置いた。
「あの……先生は、どうして同居なんて許したんですか」
生真面目そうな瞳が震えを隠すように揺れている。ぽっちゃりした頬がこわばっているのが、なぜだか残念に思えた。
「……しいて言えば、暇つぶしかな」
「暇つぶし……」
明らかに納得がいっていないという顔をしている。
ここまでわかりやすい人間も珍しい。ミスリードするように、わざと表情を作る人間もいるが、梓の場合はそういう打算が成功する人間には見えなかった。
碧惟に近づいてくる連中は引きも切らないが、単なるミーハーだって、もう少し気が回る。
だから、碧惟も少しだけ説明してやることにした。
「おまえが何か企んでいるようには思えなかったし。……ああ、この家には貴重品なんてないから、盗みをしようとしたって無駄だ。主だったものは、実家に置いてある。ここは、仮の家みたいなものだから」
「そうなんですか」
「だからって、俺と暮らしていることも、俺がここに住んでいることも、言いふらすなよ」
「もちろんです」
「知られると面倒だからな」
さすがに、梓が同棲相手だと吹聴されるのは、気が滅入る。同居人はほしいが、同棲相手はいらなかった。梓が女であり碧惟が男である限り、ただの同居人だと主張しても、すんなり受け入れられないであろうことは、さすがに碧惟にもわかる。
それに、料理教室の生徒に知られるのは避けたい。教師の女の部屋を毎度、通り過ぎているのかと思うのは、あまり気分の良いものではないだろう。
「それから、俺の寝顔なんか撮っても、写真誌になんかには売れないぞ」
「……売れそうですけど」
「せいぜいネットに流れるくらいだろ。大手のマスコミは相手にしないさ。熱愛発覚くらいなら、別にダメージにもならないしな」
「十分なりそうですが」
うんざりして、言い返す気にもなれない。
「この年で、恋人の一人もいないよりマシだろ」
そう言うのがやっとだった。
自分の立ち位置はわかっている。人気料理研究家・出海翠の一人息子として、脛をかじり続けている人生だ。
自分としては、イタリアで料理人として働いていた経験をもとにした本格的なイタリアンのレシピを買ってほしいのだが、若さとルックスで使ってもらっていることは認識している。
そして、それだけではいつまでもつものでもないことも、十分わかっていた。
物思いにふけりそうになったところを、梓が打ち破った。
「……でも、本当に恋人はいないんですよね?」
「ああ。文句あるか」
「いえ、ないです……」
梓は殊勝に否定したが、碧惟は鼻白んだ。決まった恋人がいるのに、よく知らない女を連れ込むほど節操なしではない。見た目から誤解されることが多いが、奔放なタイプではなかった。
「おうちにいさせていただく上で、ルールとかありますか?」
気を取り直したように、梓が尋ねた。
なんともわかりやすい話題変換だとは思ったが、見知らぬ男女がしばらく一緒に暮らしていくのだ。初めに確認しておいた方が良い。
梓は自分から言いだしたくせに、いまだに同居に戸惑っているようだが、碧惟は他人と一緒に暮らすのに慣れていた。
料理研究家の母は自宅で仕事をしていて、常に多数の人が出たり入ったりしていたし、イタリアでは下宿や寮住まいだった。日本に戻ってからも、つい最近まで同居人がいたのだ。
「そうだな……メシは、俺と同じで良ければ、用意できる」
「いえ、そんなことをしていただくわけには」
「いや、たいてい試作品の残りだから、もし良ければ、素人の意見を聞きたい」
仕事のスタッフ以外に、創作中の料理を出す機会が少なくなったのが、最近の小さな悩みだったことを思い出した。
梓は好き嫌いがないと言っていたし、実際に夕食も「おいしい」を連発して、きれいに平らげた。意見はズブの素人で、ボキャブラリーもまるでなかったが、自分なりの感想を言おうとする意気は伝わった。碧惟がいろいろと説明しても、面倒臭がらずにその都度真面目に聞いていたのもいい。
「……そういうことでしたら、ありがたくいただきます」