料理研究家の婚約レッスン
Lesson 3

出勤

 会社に着くと、2日ぶりに出勤した弥生がいた。

「おはようございます、弥生さん。もう体調は良いんですか?」

「うん。迷惑かけちゃって、ごめんね。出海碧惟のこととか、どうもありがとう」

「そのことなんですけど……」

 梓は、辺りをはばかって声を潜める。

「出海碧惟先生の件、わたしに任せてもらえないでしょうか」

「どういうこと? あれは、断られたって言ってたよね」

「確かに断られてしまったんですが、弥生さんに教わった企画の意図をもう一度伝えたところ……その……まだ連絡を取ることはできていまして。もう少し粘ってみたいんです」

「それは構わないけど、どうやって? 企画は、全面的にダメだと言われたんでしょ?」

 梓は、恋人設定ではなく、新婚の設定にしたところ、ほんのわずかだが首がつながった話をした。

「ということで、先生に結婚の良さを伝えたいんです」

「梓ちゃん……」

「大丈夫です!」

 心配そうな弥生に、梓は無理やりほほ笑んでみせた。

 傷を抉っている自覚はある。薄くかさぶたができてきた傷口を、ナイフでグズグズに引っ掻き回している気分だ。痛いなんてもんじゃない。

 しかも、今朝一番に自分からグリグリえぐってきたばかりだ。

「わたし、この企画を実現させたいんです。弥生さんの力になりたいのは、もちろんですけど、自分のためにも、やれることはやり切ったという経験が欲しいんです」

 思えば仕事だけでなく、恋愛も流されてばかりだった。婚約を破棄されたときでさえ、本気で取り縋ったのかと思い返してみれば、自信がなくなってくる。

 相手に子どもができたと言われてしまえば、たいしたことは言えなかったというのが大きいが、結果は変わらなかったとしても、もっといろいろ伝えられたのではないだろうか。二人がどうやって時間を積み重ねてきたのか、結婚しようと言われてどんなにうれしかったのか、どれだけ自分があの人を愛していたかとか……。

(――あ。まずい。泣く)

 慌てて思い出を押しやり、梓は拳を握り締める。

「なので、力を貸してもらえませんか?」

 叫ぶように言ってみせた梓に、弥生はもちろんとうなずいてくれた。

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