料理研究家の婚約レッスン
水上弥生
翌日、久しぶりにやって来た母校の近くのカフェに入り、梓は懐かしさに目を細めた。
「梓ちゃん」
席を見回す前に、呼び止められた。待ち合わせの相手、水上弥生が、奥の席から手を振ってくれている。
「弥生さん!」
店員の案内を断って向かいに座ると、弥生は朗らかに迎えてくれた。
「梓ちゃん、あけましておめでとう。会えて良かった。時間を作ってくれて、ありがとう」
弥生は梓より3学年上だったが、大学図書館でのアルバイト仲間として知り合い、卒業してからも親しくしていた。就職してから東京で暮らしている弥生が正月に帰省するたびに、二人だけの年始会をするのは毎年の恒例行事だ。
といっても、これまでほとんど外出もしなかった梓だ。今回はとても出かける気分になれないと、弥生の誘いも保留にしてきた。
それなのにこうして出てきたのは、親族の新年会に行きたくなかったからで、そんな理由でノコノコと出てきた自分への情けなさやら、学生時代に何度も励ましてもらった弥生の笑顔やらで、梓はなんだか泣きそうになってしまった。家族でない人とこうして向き合うのも久しぶりだったのだ。
婚約した際、弥生にはすぐさま伝えていた。披露宴への出席も打診済みだったから、それがなくなったことを梓から連絡した数少ないうちの一人だ。
最初、弥生は年末年始のテレビ番組など他愛のない話ばかりをしていたが、そんな弥生の気遣いに安心して、気づけば梓は、自分から近況を話し始めていた。
「それじゃ、今は家にいるの?」
梓はうなずき、ぬるくなったカフェラテを口につけた。
弥生が聞き上手なので、何もかも話してしまった。婚約破棄の理由なんて、家族以外に自分で話したのは初めてだ。
(弥生さんに、なんて言われるだろう……)
かわいそうに。残念だったね。もっといい人がいるよ。仕事をしないでいいなんて、ラッキーだね。
これまで、耳をふさごうとしても入ってきた言葉をあれこれ思い返していたが、弥生はそのどれもを言わなかった。
「もしかして、そろそろ仕事を探そうと思ってる?」
「……そうですね」
別れを告げられたときには、会社の退職手続きはすべて済んでしまっていたから、復職することはかなわなかった。仮にもしできたとしても、元婚約者と同じ職場になんて戻りたくもない。
新しい職場を探さなくてはならないが、まだまだ自分から積極的に職探しにいくには気力が足りない。自堕落な生活に慣れてしまってきているのが自分でもわかっていたが、梓は自分に言い聞かせている言い訳を口にした。
「でも、この辺を歩いていたら、彼に会いそうな気がして嫌なんですよ。あの人、営業だから、いろんなところに行くし」
「それなら……もし良かったら、うちの会社に来ない?」
突然の申し出に、梓は目をしばたいた。
「ええっと、弥生さんの会社って……」
「編集プロダクション」
「編集なんて、わたしやったことがありませんよ?」
「わかってるって。だから、一般事務のアルバイト。今、事務をしてくれる人を探しているんだ。小さい会社だし、お給料は高くないけど、東京で一人暮らししてみたら、気分転換になるんじゃないかな」
「……気分転換」
そんなもの、したくもない。つい最近まではそう思っていた。
でも、実家でゴロゴロしているのもつらくなってきている。
今日だって、帰宅したら姉に小言を言われるに決まっている。
親族会でも、きっと口うるさく言っている人たちがいるはずだ。梓が欠席のため、それを受けるのは両親だろう。
両親は腫れ物扱いをするばかりで、特段なにも言ってこなかったが、みんなにあれこれ言われるうちに、考えを変えるかもしれない。
そろそろ、潮時なのだろう。
諦めとともに、無理やり追い立てられる前に、少しでも楽な道へ進んでおきたいというせせこましい焦りが出てくる。
弥生なら──ありがちな心配やら嫌みやらはもちろんのこと、「元気だった?」「思ったより元気そうだね」と言った何気ない、けれど心を穿つことを決して言わなかった弥生の言うことなら、聞いてみても良いのではないか。
「……本当に、行ってもいいんでしょうか?」
「もちろん。こっちは人手不足で困ってるんだから。なんなら、期間限定のアルバイトでどう?」
「梓ちゃん」
席を見回す前に、呼び止められた。待ち合わせの相手、水上弥生が、奥の席から手を振ってくれている。
「弥生さん!」
店員の案内を断って向かいに座ると、弥生は朗らかに迎えてくれた。
「梓ちゃん、あけましておめでとう。会えて良かった。時間を作ってくれて、ありがとう」
弥生は梓より3学年上だったが、大学図書館でのアルバイト仲間として知り合い、卒業してからも親しくしていた。就職してから東京で暮らしている弥生が正月に帰省するたびに、二人だけの年始会をするのは毎年の恒例行事だ。
といっても、これまでほとんど外出もしなかった梓だ。今回はとても出かける気分になれないと、弥生の誘いも保留にしてきた。
それなのにこうして出てきたのは、親族の新年会に行きたくなかったからで、そんな理由でノコノコと出てきた自分への情けなさやら、学生時代に何度も励ましてもらった弥生の笑顔やらで、梓はなんだか泣きそうになってしまった。家族でない人とこうして向き合うのも久しぶりだったのだ。
婚約した際、弥生にはすぐさま伝えていた。披露宴への出席も打診済みだったから、それがなくなったことを梓から連絡した数少ないうちの一人だ。
最初、弥生は年末年始のテレビ番組など他愛のない話ばかりをしていたが、そんな弥生の気遣いに安心して、気づけば梓は、自分から近況を話し始めていた。
「それじゃ、今は家にいるの?」
梓はうなずき、ぬるくなったカフェラテを口につけた。
弥生が聞き上手なので、何もかも話してしまった。婚約破棄の理由なんて、家族以外に自分で話したのは初めてだ。
(弥生さんに、なんて言われるだろう……)
かわいそうに。残念だったね。もっといい人がいるよ。仕事をしないでいいなんて、ラッキーだね。
これまで、耳をふさごうとしても入ってきた言葉をあれこれ思い返していたが、弥生はそのどれもを言わなかった。
「もしかして、そろそろ仕事を探そうと思ってる?」
「……そうですね」
別れを告げられたときには、会社の退職手続きはすべて済んでしまっていたから、復職することはかなわなかった。仮にもしできたとしても、元婚約者と同じ職場になんて戻りたくもない。
新しい職場を探さなくてはならないが、まだまだ自分から積極的に職探しにいくには気力が足りない。自堕落な生活に慣れてしまってきているのが自分でもわかっていたが、梓は自分に言い聞かせている言い訳を口にした。
「でも、この辺を歩いていたら、彼に会いそうな気がして嫌なんですよ。あの人、営業だから、いろんなところに行くし」
「それなら……もし良かったら、うちの会社に来ない?」
突然の申し出に、梓は目をしばたいた。
「ええっと、弥生さんの会社って……」
「編集プロダクション」
「編集なんて、わたしやったことがありませんよ?」
「わかってるって。だから、一般事務のアルバイト。今、事務をしてくれる人を探しているんだ。小さい会社だし、お給料は高くないけど、東京で一人暮らししてみたら、気分転換になるんじゃないかな」
「……気分転換」
そんなもの、したくもない。つい最近まではそう思っていた。
でも、実家でゴロゴロしているのもつらくなってきている。
今日だって、帰宅したら姉に小言を言われるに決まっている。
親族会でも、きっと口うるさく言っている人たちがいるはずだ。梓が欠席のため、それを受けるのは両親だろう。
両親は腫れ物扱いをするばかりで、特段なにも言ってこなかったが、みんなにあれこれ言われるうちに、考えを変えるかもしれない。
そろそろ、潮時なのだろう。
諦めとともに、無理やり追い立てられる前に、少しでも楽な道へ進んでおきたいというせせこましい焦りが出てくる。
弥生なら──ありがちな心配やら嫌みやらはもちろんのこと、「元気だった?」「思ったより元気そうだね」と言った何気ない、けれど心を穿つことを決して言わなかった弥生の言うことなら、聞いてみても良いのではないか。
「……本当に、行ってもいいんでしょうか?」
「もちろん。こっちは人手不足で困ってるんだから。なんなら、期間限定のアルバイトでどう?」