料理研究家の婚約レッスン
東京
弥生の話を受けて、梓はすぐに東京に引っ越した。年始明け早々、弥生が勤務先に話を通してくれたからだ。
勤務先の編集プロダクションは社長夫婦と弥生、それにもう一人正社員がいるだけという気楽な小世帯だった。全員編集者で、事務作業にあてる時間が取れなくなってきていたらしい。
とりあえず年度末の3月まではお互いに試用期間のつもりということで契約し、それ以降はまた相談することにして、週5日のアルバイト生活はすぐに始まった。
梓の仕事は、簡単な経理事務と電話対応などだ。仕事自体はそれほど難しくないし、弥生はもとより他のメンバーも接しやすい人ばかりで、初めての転職への不安はすぐに消えていった。
「どう、梓ちゃん。少しは慣れてきた?」
「はい。ありがとうございます。お蔭様で仕事の方は何とか」
弥生に聞かれたとき、すぐさまそう答えられるほど、仕事ぶりは順調だった。
初めての転職で、東京にも出てきばかりだと弥生が伝えてくれていたせいか、仕事は簡単なものから始まったし、忙しい中よく指導してくれる。残業もない。梓がなじみやすいよう、席も弥生のすぐ隣にしてくれた。
実際には、弥生は外出が多く、日の半分は不在だったが、こうした気遣いがありがたかった。仕事には、なんの不満もない。
「ん? 仕事の方はってことは、他で気になることがあるの?」
「一人暮らしが初めてなので……」
「あっ、そうか」
これまで家事は家族任せで、ろくに手伝いもしたことがない。特に最近は部屋にこもったせいもあり、誰かにやってもらうのが当然になってしまっていた。
「弥生さんは、就職してから一人暮らしでしたよね? やっぱり大変でした?」
「初めは洗濯が間に合わなかったりして、失敗も多かったよ。料理は実家でもしていたから、一人分になってむしろ楽になったくらいだけど。梓ちゃんは、相変わらず料理しないの?」
梓はあやふやにごまかした。学生の頃から料理上手だった弥生の影響は受けず、学校の調理実習のときだって、包丁を握ったかどうか怪しいところだ。
「まあ、しばらくは大変だろうけど、すぐに慣れるよ。仕事も生活も初めてづくしなんだから、無理しないようにね」
「ありがとうございます」
今はなんの心配もなさそうな弥生に接して、梓はあらためて違いを実感する。
梓の前では気を遣ってか、めっきり家庭の話をしなくなってしまったが、弥生は昨年結婚したばかりだ。落ち着いた暮らしを送れていなければ、結婚もしなかっただろう。
(もしかして……わたしに結婚は、まだ早かったのかな)
沈んでいきそうな心を、弥生が引き止めた。
「一人暮らし初心者におすすめの本もあるよ。コツや手順を知っておくだけでも楽になることがあるから、良かったら読んでみて」
「ありがとうございます。弥生さんが作った本ですか?」
「ううん、わたしは料理本がメイン。初心者向けのもあるんだけど……」
そう言いかけたが、本を取ろうとしていた手を止めて、弥生はニコリと笑った。
「初めから、あれもこれもがんばると嫌になっちゃうから、お料理はあとでいいんじゃないかな」
「すみません、ありがとうございます」
こういう思いやりが、弥生の優しさだ。
「もし興味が出てきたら、いつでも言ってね。例えば……こういう人もいるし!」
もったいぶったように言って、弥生は自分のデスクから一冊の本を取り出した。
「……なんですか?」
「ほら! この人!」
「……ええと?」
カラー写真が表紙のレシピ本には、若い男性が大きく載っている。料理家だろうか?
「あれ? 知らない?」
梓が首をかしげていると、弥生も首をひねった。
「そっか。料理に興味がなければ、天下の出海碧惟も知られてないってことか」
「有名人ですか?」
「料理研究家としてはね。テレビの地上波で帯番組持っている人なんて、今どき珍しいよ」
「テレビは見なくて」
「そうだよねぇ。SNSもやってないしなぁ。母親の出海翠の方が、まだ知名度は上かな」
「あ、それなら母が本を持っていたような……もしかして、テレビ番組ってモデルの湖春とやってる……?」
梓の脳裏に、母が見ていた料理番組がよみがえった。
「そうそう! 『23時の美人メシ』!」
「あぁ、思い出しました」
顔を売りにした男性料理家が、湖春をアシスタントにして、健康や美容に配慮した料理を作る番組だ。モデルの湖春は、梓の世代のカリスマだったこともあり、梓も何度か見たことがあった。
番組自体はオーソドックスな料理番組で、いかにも女性が好みそうな見た目の良い料理を作る。そして最後に、「召しあがれ」と出海碧惟が決まり文句を言って終わるのだ。
(わたし、このひと苦手)
出海碧惟は必要最小限しか話さず、表情も乏しい。整った容姿と二世のコネに、いかにも胡座をかいているように見える。
湖春だってかなりの美人ながら、タレントでもないのにアシスタント業務をテキパキとこなし、さらにはニコニコと美容の豆知識なども披露するのに比べてしまうと、そもそも梓の中で湖春の好感度が圧倒的に高かったことを差し引いても、お釣りが出てしまう。
そんな梓の心中を知らない弥生は、デスクの上に出海碧惟の本を次々と並べはじめた。
「こんなに買ってるなんて、ファンだったんですか? 意外」
「違う違う、これは資料。今、出海碧惟に企画を提案してるんだ」
「あぁ、それで……。どんな企画なんですか?」
料理にも出海碧惟にも興味はなかったが、水を向けると弥生はとうとうと説明してくれた。
「半年前からアタックし続けて、ようやく今度会えることになったんだ」
「半年も!?」
「早い方だよ」
弥生は笑い飛ばしたが、梓は半年がかりの仕事なんてしたことがなかったから、気が遠くなる。
(弥生さん、生き生きしてるな)
仕事に誇りを持っているのだろう。学生時代から快活な人だったが、職場ではいっそう輝いている。
(でも、今日は少し疲れてるのかな……)
気丈にふるまっているが、声に少し張りがない気がするし、顔色も良くない。
いつも忙しそうにしているのだから、無理もないだろう。社員たちは夜も遅そうだった。
一方、残業がほとんどない梓だが、それでも仕事終わりに買い物をして家に帰るだけで、くたびれている毎日だ。
(心機一転するには、ちょうど良かったのかも)
毎日なんとかやり過ごしているうちに、地元での記憶は少しずつ遠くなっていった。
勤務先の編集プロダクションは社長夫婦と弥生、それにもう一人正社員がいるだけという気楽な小世帯だった。全員編集者で、事務作業にあてる時間が取れなくなってきていたらしい。
とりあえず年度末の3月まではお互いに試用期間のつもりということで契約し、それ以降はまた相談することにして、週5日のアルバイト生活はすぐに始まった。
梓の仕事は、簡単な経理事務と電話対応などだ。仕事自体はそれほど難しくないし、弥生はもとより他のメンバーも接しやすい人ばかりで、初めての転職への不安はすぐに消えていった。
「どう、梓ちゃん。少しは慣れてきた?」
「はい。ありがとうございます。お蔭様で仕事の方は何とか」
弥生に聞かれたとき、すぐさまそう答えられるほど、仕事ぶりは順調だった。
初めての転職で、東京にも出てきばかりだと弥生が伝えてくれていたせいか、仕事は簡単なものから始まったし、忙しい中よく指導してくれる。残業もない。梓がなじみやすいよう、席も弥生のすぐ隣にしてくれた。
実際には、弥生は外出が多く、日の半分は不在だったが、こうした気遣いがありがたかった。仕事には、なんの不満もない。
「ん? 仕事の方はってことは、他で気になることがあるの?」
「一人暮らしが初めてなので……」
「あっ、そうか」
これまで家事は家族任せで、ろくに手伝いもしたことがない。特に最近は部屋にこもったせいもあり、誰かにやってもらうのが当然になってしまっていた。
「弥生さんは、就職してから一人暮らしでしたよね? やっぱり大変でした?」
「初めは洗濯が間に合わなかったりして、失敗も多かったよ。料理は実家でもしていたから、一人分になってむしろ楽になったくらいだけど。梓ちゃんは、相変わらず料理しないの?」
梓はあやふやにごまかした。学生の頃から料理上手だった弥生の影響は受けず、学校の調理実習のときだって、包丁を握ったかどうか怪しいところだ。
「まあ、しばらくは大変だろうけど、すぐに慣れるよ。仕事も生活も初めてづくしなんだから、無理しないようにね」
「ありがとうございます」
今はなんの心配もなさそうな弥生に接して、梓はあらためて違いを実感する。
梓の前では気を遣ってか、めっきり家庭の話をしなくなってしまったが、弥生は昨年結婚したばかりだ。落ち着いた暮らしを送れていなければ、結婚もしなかっただろう。
(もしかして……わたしに結婚は、まだ早かったのかな)
沈んでいきそうな心を、弥生が引き止めた。
「一人暮らし初心者におすすめの本もあるよ。コツや手順を知っておくだけでも楽になることがあるから、良かったら読んでみて」
「ありがとうございます。弥生さんが作った本ですか?」
「ううん、わたしは料理本がメイン。初心者向けのもあるんだけど……」
そう言いかけたが、本を取ろうとしていた手を止めて、弥生はニコリと笑った。
「初めから、あれもこれもがんばると嫌になっちゃうから、お料理はあとでいいんじゃないかな」
「すみません、ありがとうございます」
こういう思いやりが、弥生の優しさだ。
「もし興味が出てきたら、いつでも言ってね。例えば……こういう人もいるし!」
もったいぶったように言って、弥生は自分のデスクから一冊の本を取り出した。
「……なんですか?」
「ほら! この人!」
「……ええと?」
カラー写真が表紙のレシピ本には、若い男性が大きく載っている。料理家だろうか?
「あれ? 知らない?」
梓が首をかしげていると、弥生も首をひねった。
「そっか。料理に興味がなければ、天下の出海碧惟も知られてないってことか」
「有名人ですか?」
「料理研究家としてはね。テレビの地上波で帯番組持っている人なんて、今どき珍しいよ」
「テレビは見なくて」
「そうだよねぇ。SNSもやってないしなぁ。母親の出海翠の方が、まだ知名度は上かな」
「あ、それなら母が本を持っていたような……もしかして、テレビ番組ってモデルの湖春とやってる……?」
梓の脳裏に、母が見ていた料理番組がよみがえった。
「そうそう! 『23時の美人メシ』!」
「あぁ、思い出しました」
顔を売りにした男性料理家が、湖春をアシスタントにして、健康や美容に配慮した料理を作る番組だ。モデルの湖春は、梓の世代のカリスマだったこともあり、梓も何度か見たことがあった。
番組自体はオーソドックスな料理番組で、いかにも女性が好みそうな見た目の良い料理を作る。そして最後に、「召しあがれ」と出海碧惟が決まり文句を言って終わるのだ。
(わたし、このひと苦手)
出海碧惟は必要最小限しか話さず、表情も乏しい。整った容姿と二世のコネに、いかにも胡座をかいているように見える。
湖春だってかなりの美人ながら、タレントでもないのにアシスタント業務をテキパキとこなし、さらにはニコニコと美容の豆知識なども披露するのに比べてしまうと、そもそも梓の中で湖春の好感度が圧倒的に高かったことを差し引いても、お釣りが出てしまう。
そんな梓の心中を知らない弥生は、デスクの上に出海碧惟の本を次々と並べはじめた。
「こんなに買ってるなんて、ファンだったんですか? 意外」
「違う違う、これは資料。今、出海碧惟に企画を提案してるんだ」
「あぁ、それで……。どんな企画なんですか?」
料理にも出海碧惟にも興味はなかったが、水を向けると弥生はとうとうと説明してくれた。
「半年前からアタックし続けて、ようやく今度会えることになったんだ」
「半年も!?」
「早い方だよ」
弥生は笑い飛ばしたが、梓は半年がかりの仕事なんてしたことがなかったから、気が遠くなる。
(弥生さん、生き生きしてるな)
仕事に誇りを持っているのだろう。学生時代から快活な人だったが、職場ではいっそう輝いている。
(でも、今日は少し疲れてるのかな……)
気丈にふるまっているが、声に少し張りがない気がするし、顔色も良くない。
いつも忙しそうにしているのだから、無理もないだろう。社員たちは夜も遅そうだった。
一方、残業がほとんどない梓だが、それでも仕事終わりに買い物をして家に帰るだけで、くたびれている毎日だ。
(心機一転するには、ちょうど良かったのかも)
毎日なんとかやり過ごしているうちに、地元での記憶は少しずつ遠くなっていった。