料理研究家の婚約レッスン
代理
仕事にも生活にもなんとか慣れてきた頃だった。
その日、早めに出社したのは、今思えば胸騒ぎがしたせいかもしれない。自分のデスクについたばかりの梓を待ちかねたように電話が鳴った。
「はい、ウェルバ・プロダクションです」
「梓ちゃん、ごめん……出海碧惟のアポ、代わりに行ってくれない?」
「弥生さん!? どうしたんですか? ひどい声……」
一声聞くだけで体調が悪いのだとわかった。声を出すのもやっとという様子だ。
けれど、おいそれと引き受けるわけにもいかない。
弥生が今日、料理研究家の出海碧惟とアポイントを取っていることは知っていた。半年以上前からアタックを続け、ようやく勝ち取った面会のチャンスなのだということは、その後も何度も語ってくれたからだ。
そんな大事な商談の代打に立てるはずがない。事務仕事には慣れてきたものの、梓は編集の仕事にはまったく関わっていないのだ。
それどころか、前職だって内勤の一般事務職で、営業の現場に立ち会ったことさえない。
それでも弥生は、梓にすがりつく。
「ようやくつかめたチャンスなの! 企画書を置いてくるだけでもいいから! 梓ちゃん、お願い!」
「そう言われても……」
梓は慌てて電話を副社長の和田博子──社長の妻で梓の直接の上司に代わってもらった。
小さな社内を見回すと、出入り口にホワイトボードの行動予定表がかかっている。社長ともう一人の社員は──取材や撮影で、今朝は直行だ。
博子の予定はと見ると、こちらはなんと9時から来客で、そのまま外出となっている。9時には、もうあと5分ほどしかない。
まだ電話を続けている博子の携帯電話が鳴った。博子は画面を見ると、梓に向かって代わりに出るように頼んだ。
相手は、9時の来客だった。会社が入っているビルの地下にある、いつも商談に使っている喫茶店に着いたという連絡だった。
梓が電話を切ると、博子もようやく受話器を置いたところだった。
「弥生さん、どうでした?」
博子は力なく首を横に振った。
「だいぶ具合が悪そう。そちらの電話は?」
「9時にお約束の山川様、もうカフェに入られたそうです。少し遅れるかもしれないと、お断りさせていただきました」
「ありがとう。そっか、山川さん、もう来ちゃったよね。こんな時間だもの」
博子は額に手を当てて一瞬考えた後、決意したように顔を上げた。
「河合さん。本当に申し訳ないんだけど、水上さんの代わりに出海碧惟のところへ行ってもらえない?」
「そんな……無理です!」
「無理を言っているのは百も承知。でも、あなたも知っているだろうけど、このアポイントは水上さんが粘りに粘って、ようやく取れたチャンスなの。今さら電話で変更を頼んだら、きっともう二度と会ってもらえない。出海碧惟って、かなり強情らしいのよ。直接言って謝ってくるだけでもいいから、お願い! 行ってきて!」
「無理です! わたしにはできません。そんな大事な仕事、したことないんです!」
梓は顔を引きつらせて後ずさる。
「本当に行ってくるだけでいいから! あなたにお願いするようなことじゃないってわかってる。でも、あなたしかいないの。社長も大杉さんも行けないし、わたしも今朝の打ち合わせは来期の大きな予算がかかってるから、どうしても外せない。水上さんだって、本当は這ってでも行きたいはずよ。だけど今、這うことさえできないっていうんだから、仕方ないじゃない!」
いつも穏やかな博子の大声に、梓はハッと身をすくませた。
「……弥生さん、そんなに悪いんですか?」
「救急車を呼べって言ったわ。でも、代理が立たないうちは病院にも行かないってごねてた」
「そんな……」
「今日は、誰も空いてないって知ってたからね。代わりにあなたに行ってもらうって言い聞かせて、ようやく電話を切れたのよ」
開口一番に聞いた、しわがれ声の弥生の懇願が耳にこだまする。
──梓ちゃん、お願い!
プレゼンはおろか、ろくな接遇経験さえ梓にないことは、しばらく一緒に働いた弥生は、よくわかっていただろう。もちろん、博子だって理解している。それでも、梓しか頼る人がいないのだ。
「河合さん、どうしても! どうしても、あなたしかいないの。お願いします」
頭まで下げられてしまっては、もはや逃げ道はない。
「……わかりました。資料を置いてくるだけですよ?」
泣きそうになりながらも、そう言うしかなかった。
その日、早めに出社したのは、今思えば胸騒ぎがしたせいかもしれない。自分のデスクについたばかりの梓を待ちかねたように電話が鳴った。
「はい、ウェルバ・プロダクションです」
「梓ちゃん、ごめん……出海碧惟のアポ、代わりに行ってくれない?」
「弥生さん!? どうしたんですか? ひどい声……」
一声聞くだけで体調が悪いのだとわかった。声を出すのもやっとという様子だ。
けれど、おいそれと引き受けるわけにもいかない。
弥生が今日、料理研究家の出海碧惟とアポイントを取っていることは知っていた。半年以上前からアタックを続け、ようやく勝ち取った面会のチャンスなのだということは、その後も何度も語ってくれたからだ。
そんな大事な商談の代打に立てるはずがない。事務仕事には慣れてきたものの、梓は編集の仕事にはまったく関わっていないのだ。
それどころか、前職だって内勤の一般事務職で、営業の現場に立ち会ったことさえない。
それでも弥生は、梓にすがりつく。
「ようやくつかめたチャンスなの! 企画書を置いてくるだけでもいいから! 梓ちゃん、お願い!」
「そう言われても……」
梓は慌てて電話を副社長の和田博子──社長の妻で梓の直接の上司に代わってもらった。
小さな社内を見回すと、出入り口にホワイトボードの行動予定表がかかっている。社長ともう一人の社員は──取材や撮影で、今朝は直行だ。
博子の予定はと見ると、こちらはなんと9時から来客で、そのまま外出となっている。9時には、もうあと5分ほどしかない。
まだ電話を続けている博子の携帯電話が鳴った。博子は画面を見ると、梓に向かって代わりに出るように頼んだ。
相手は、9時の来客だった。会社が入っているビルの地下にある、いつも商談に使っている喫茶店に着いたという連絡だった。
梓が電話を切ると、博子もようやく受話器を置いたところだった。
「弥生さん、どうでした?」
博子は力なく首を横に振った。
「だいぶ具合が悪そう。そちらの電話は?」
「9時にお約束の山川様、もうカフェに入られたそうです。少し遅れるかもしれないと、お断りさせていただきました」
「ありがとう。そっか、山川さん、もう来ちゃったよね。こんな時間だもの」
博子は額に手を当てて一瞬考えた後、決意したように顔を上げた。
「河合さん。本当に申し訳ないんだけど、水上さんの代わりに出海碧惟のところへ行ってもらえない?」
「そんな……無理です!」
「無理を言っているのは百も承知。でも、あなたも知っているだろうけど、このアポイントは水上さんが粘りに粘って、ようやく取れたチャンスなの。今さら電話で変更を頼んだら、きっともう二度と会ってもらえない。出海碧惟って、かなり強情らしいのよ。直接言って謝ってくるだけでもいいから、お願い! 行ってきて!」
「無理です! わたしにはできません。そんな大事な仕事、したことないんです!」
梓は顔を引きつらせて後ずさる。
「本当に行ってくるだけでいいから! あなたにお願いするようなことじゃないってわかってる。でも、あなたしかいないの。社長も大杉さんも行けないし、わたしも今朝の打ち合わせは来期の大きな予算がかかってるから、どうしても外せない。水上さんだって、本当は這ってでも行きたいはずよ。だけど今、這うことさえできないっていうんだから、仕方ないじゃない!」
いつも穏やかな博子の大声に、梓はハッと身をすくませた。
「……弥生さん、そんなに悪いんですか?」
「救急車を呼べって言ったわ。でも、代理が立たないうちは病院にも行かないってごねてた」
「そんな……」
「今日は、誰も空いてないって知ってたからね。代わりにあなたに行ってもらうって言い聞かせて、ようやく電話を切れたのよ」
開口一番に聞いた、しわがれ声の弥生の懇願が耳にこだまする。
──梓ちゃん、お願い!
プレゼンはおろか、ろくな接遇経験さえ梓にないことは、しばらく一緒に働いた弥生は、よくわかっていただろう。もちろん、博子だって理解している。それでも、梓しか頼る人がいないのだ。
「河合さん、どうしても! どうしても、あなたしかいないの。お願いします」
頭まで下げられてしまっては、もはや逃げ道はない。
「……わかりました。資料を置いてくるだけですよ?」
泣きそうになりながらも、そう言うしかなかった。