料理研究家の婚約レッスン
 待ちわびた人影は、あれだけ目を凝らした道路ではなく、人気のない公園から現れた。

 足を引きずるような姿に、思わず駆け寄る。

 碧惟の手が届くかという瞬間、梓は転びそうになった。

「――おいっ!」

 なんとか支えると、梓はよろよろと顔を上げた。

「先生……」

 テレビのスタジオでよろけたときと同じように驚いて、その次にはにかんだようにほほ笑む。

「おまえ、なにやってんだ! こんなに遅くなって!」

「先生、なんでこんなところに? 料理教室は?」

「とっくに終わってる」

「……ごめんなさい」

「謝るな」

 碧惟は、梓の両手から荷物を奪った。

「こんなに重たいもの、一人で抱えてきたのか」

「あっ、自分で持てます」

「いいから。おまえは転ぶな」

「……はい」

 マンションに入ると、碧惟は梓をかえりみないで、部屋に入った。兎にも角にも、キャベツをスタジオに運ぶ。

 入れ替わりに、恭平が梓を迎えに行ったのがわかったが、顔を上げられなかった。

(……良かった)

 目の奥が熱くなった。

「お帰りなさい。6個も一人で持ってくるなんて、大変だったでしょう」

「いえ、遅くなってしまって……」

 恐縮しきった梓の声が届く。

(そんなの気にしなくていいんだ)

 帰ってきてくれただけでいい。そもそも梓に無理を強いた碧惟が悪いのだ。

 安堵と自己嫌悪とで、身動きが取れない。

 ノロノロと梓の持ってきたキャベツを取り出して、吟味する。

 この雪が降るまでは天候は上々で、できもいいと聞いていた通り、春キャベツは黄緑色も瑞々しく、葉はつややかで、形もいい。気温が低いせいか長距離をただのビニール袋に入れて持ってきたわりには、鮮度も保っていた。

「あの……先生、怒ってました?」

 梓の声が聞こえた。

 まだ廊下にいるのは、入りづらいと思っているのだろうか。

 迎えに行こうかと踏み出した足が、恭平の苦笑で止まる。

「そんなことないよ。河合さんのこと、心配して大変だったんだから」

(余計なことを)

「一日中そわそわしていてね。連絡もつかないし、電車は止まってるって言うし、近くで事故があったらしいし、雪はどんどん強くなるし……。無事で帰ってくれて良かった。ありがとう」

 言いたいことは、全部恭平に言われてしまった。

 それでもまだ気にしているのか、梓は恭平に隠れるようにして、やっとスタジオに入ってきた。

「先生……」

(まず謝罪か。いや、礼が先か)

 自然と眉間にしわが寄っていたのか、梓が肩を縮める。

 その顔が妙に気になる。

 碧惟は、ふいに梓の額に手を当てた。

「おまえ、熱ないか?」

「え?」

 梓に自覚はないようで、首をかしげている。

「それなら碧惟、あとは俺がやっておくから、河合さんについてあげて」

「ああ。悪い」

「えっ、でも……」

「早く来い」

 取るものとりあえず、梓を部屋に連れて行く。

 ベッドに押し込もうとしたが、汗だくなので先にお風呂に入りたいと主張するので、風呂場まで見送り、碧惟はスタジオに戻った。

「河合さん、大丈夫?」

「今、風呂に入ってる」

「そっか。さて、俺はもう帰るよ」

 ついに仕事を終わらせた恭平は、手早く帰り支度を済ませた。

 いつもはスタジオで見送るが、玄関までついていく。

「恭平。今日は本当に悪かった」

「いいって。俺もいろいろ言って悪かったよ。でも、今日の“碧惟先生”は、なかなか良かったんじゃないの?」

「……そうか?」

「うん。また明日」

「ああ、また明日よろしく」

 碧惟は、101号室に戻った。

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