料理研究家の婚約レッスン
レッスン
碧惟を起こした後、梓はキッチンに入る。
お湯を沸かしたり、テーブルを拭いたりといった簡単な準備をしていると、身支度を整えた碧惟がやって来る。その後は、朝から二人きりの料理教室だ。
「手は洗ったか?」
「はい、もちろんです」
「じゃあ、始めるぞ」
今日は、スクランブルエッグが梓の担当。
「おい、バターは完全に溶けてからだって言ったろ」
「え、溶けてますけど」
「もっと気泡が大きくなってから。よし、今だ! 早く! 卵料理は、タイミングが肝心なんだ」
急いだ碧惟が、梓の手ごとボウルを持ち、フライパンに卵液を空ける。
「大きく掻き混ぜて。そうじゃない。外から内に向かって、のの字を書くように」
後ろから抱き締めるようにして、碧惟が指導する。
(こんなんじゃ、落ち着いて覚えられないよ……っ!)
真っ赤になる梓に気づいていないのか、碧惟は平然とスクランブルエッグを完成させ、お皿に盛り付ける。
「もう一度、今度は一人でやってみろ」
「はい!」
それでも、きちんと教えようとしてくれている碧惟の気持ちは伝わるから、梓は素直に従うしかない。
そのため、少しずつではあるが、調理の腕が上がってきたような気もする。
でき上がった朝食を二人で食べて片付けてから、出勤。碧惟がお弁当を持たせてくれることもある。
家に帰れば、たいてい碧惟はスタジオにいる。朝と同様に夕食も二人でとる生活だ。
世間の新婚家庭より、ある意味どっぷり甘ったるい。
(こんな暮らしを続けていて、社会復帰できるのかな)
自分が、こんなに惚れっぽい人間だとは思わなかった。
(相手が悪い……よね)
そこらの芸能人よりかっこいいと評判の出海碧惟だ。
人前ではクールなくせに、それは単に緊張症のせいだったとか。実は世話焼きで、朝が弱くて、無意識で甘えん坊とか。一般に比べても恋愛経験豊富とはいえない梓なんて、戦う前から負けに決まっている。
でも、そのお蔭で、失恋の痛みは、ほとんど思い出さないほど小さくなった。
たった一年前は、前の恋人のことしか見ていなかったのに。
(けっこう薄情だったんだな、わたし)
「梓!」
そう、こんなふうに力強く自分の名前を呼んでくれる恋人のことが好きだった。
半年前までは毎日のように聞いていた声が聞こえてきた気がして、梓は苦笑する。
耳はまだ覚えているようだ。
「梓っ!」
今度は、はっきりと自分の名が聞こえて、梓は足を止めた。
仕事を終え、会社の入っているビルから出てきたところだった。風が強く吹いて、梓は乱れた髪を押さえる。
「梓。本当にこんなところにいたのか」
「武……!? どうしてここに?」
荒川武《あらかわ たける》。半年前に梓を振った張本人が、そちらも驚いたように立ち尽くしていた。
武は、梓の故郷・栃木の会社に勤めているはずだ。
呆然とする梓の前に、武は小走りでやって来た。目の前に立たれると、梓は無意識に一歩下がった。
それを見た武が、眉をひそめる。
「ここに勤めていると聞いて、出張のついでに寄ったんだ。おまえ、湖春のブログに載っただろ。会社で噂になってる」
「あ……」
テレビ番組で碧惟のアシスタントを務めている売れっ子モデル・湖春が撮ってくれたツーショット写真は、後日湖春のブログに掲載された。
もちろん、梓も許可してのことだ。憧れの湖春と写真を撮ってもらって、舞い上がっていたし、良い記念になると思ったからだ。
そのときは人気ブログとはいえ、知り合いの話題にされるとは思ってもいなかった。
お湯を沸かしたり、テーブルを拭いたりといった簡単な準備をしていると、身支度を整えた碧惟がやって来る。その後は、朝から二人きりの料理教室だ。
「手は洗ったか?」
「はい、もちろんです」
「じゃあ、始めるぞ」
今日は、スクランブルエッグが梓の担当。
「おい、バターは完全に溶けてからだって言ったろ」
「え、溶けてますけど」
「もっと気泡が大きくなってから。よし、今だ! 早く! 卵料理は、タイミングが肝心なんだ」
急いだ碧惟が、梓の手ごとボウルを持ち、フライパンに卵液を空ける。
「大きく掻き混ぜて。そうじゃない。外から内に向かって、のの字を書くように」
後ろから抱き締めるようにして、碧惟が指導する。
(こんなんじゃ、落ち着いて覚えられないよ……っ!)
真っ赤になる梓に気づいていないのか、碧惟は平然とスクランブルエッグを完成させ、お皿に盛り付ける。
「もう一度、今度は一人でやってみろ」
「はい!」
それでも、きちんと教えようとしてくれている碧惟の気持ちは伝わるから、梓は素直に従うしかない。
そのため、少しずつではあるが、調理の腕が上がってきたような気もする。
でき上がった朝食を二人で食べて片付けてから、出勤。碧惟がお弁当を持たせてくれることもある。
家に帰れば、たいてい碧惟はスタジオにいる。朝と同様に夕食も二人でとる生活だ。
世間の新婚家庭より、ある意味どっぷり甘ったるい。
(こんな暮らしを続けていて、社会復帰できるのかな)
自分が、こんなに惚れっぽい人間だとは思わなかった。
(相手が悪い……よね)
そこらの芸能人よりかっこいいと評判の出海碧惟だ。
人前ではクールなくせに、それは単に緊張症のせいだったとか。実は世話焼きで、朝が弱くて、無意識で甘えん坊とか。一般に比べても恋愛経験豊富とはいえない梓なんて、戦う前から負けに決まっている。
でも、そのお蔭で、失恋の痛みは、ほとんど思い出さないほど小さくなった。
たった一年前は、前の恋人のことしか見ていなかったのに。
(けっこう薄情だったんだな、わたし)
「梓!」
そう、こんなふうに力強く自分の名前を呼んでくれる恋人のことが好きだった。
半年前までは毎日のように聞いていた声が聞こえてきた気がして、梓は苦笑する。
耳はまだ覚えているようだ。
「梓っ!」
今度は、はっきりと自分の名が聞こえて、梓は足を止めた。
仕事を終え、会社の入っているビルから出てきたところだった。風が強く吹いて、梓は乱れた髪を押さえる。
「梓。本当にこんなところにいたのか」
「武……!? どうしてここに?」
荒川武《あらかわ たける》。半年前に梓を振った張本人が、そちらも驚いたように立ち尽くしていた。
武は、梓の故郷・栃木の会社に勤めているはずだ。
呆然とする梓の前に、武は小走りでやって来た。目の前に立たれると、梓は無意識に一歩下がった。
それを見た武が、眉をひそめる。
「ここに勤めていると聞いて、出張のついでに寄ったんだ。おまえ、湖春のブログに載っただろ。会社で噂になってる」
「あ……」
テレビ番組で碧惟のアシスタントを務めている売れっ子モデル・湖春が撮ってくれたツーショット写真は、後日湖春のブログに掲載された。
もちろん、梓も許可してのことだ。憧れの湖春と写真を撮ってもらって、舞い上がっていたし、良い記念になると思ったからだ。
そのときは人気ブログとはいえ、知り合いの話題にされるとは思ってもいなかった。