料理研究家の婚約レッスン

わだかまり★

 なにもないはずない、と碧惟は思う。梓と見知らぬ男は、あきらかに揉めていた。

(あんな大声あげるの、初めて聞いたな)

 はしゃいで騒ぐことはあったが、悲鳴のような声はさすがに聞き覚えがなかった。二人の間にどんなトラブルがあったのだろう。

 男女間のトラブルなら、痴情のもつれが一番多いだろうが、梓の昔の恋人だろうか。

(それならそうと言えばいいのに)

 隠そうとするから、気になってしまう。

 だいたい隠す理由がわからない。あんな現場を同居人に見られたのだから、説明するのが道理だろう。あの場で収まっていないようなら、碧惟が助けられることもあるかもしれない。

 梓が大雪の中、キャベツを受け取りにはるばる千葉まで行ってくれたように、碧惟だって梓のためにできることがあるなら、してやりたい。そう思うのは、同居人として当然じゃないのか。

 信用されていないようで、すこぶる不愉快だった。

(俺が好きなら、こういうときこそ頼れよ)

 こんな気分で、とうてい料理なんか教えてやる気分にはなれない。

「今日は、適当に済ませるぞ」

「手伝います」

「いい」

 すげなく断ったあと、どうしようもない後悔が襲う。

 八つ当たりをしないために手伝いを断ったのに、すでに当たってしまった。

「悪い」

「いえ……」

 そう答える梓も、ギクシャクしているのは、碧惟のせいなのか、それともあの男のせいなのか。

 ムカムカと腹が熱くなってくるようで、碧惟は無理にでも笑みを浮かべた。

「ごめんな。先に着替えてこいよ」

「ありがとうございます。そうします」

 追いかけていって問い詰めたい気持ちを抑えて、夕食の準備を始める。

 料理をしていると、自然に集中できるのがありがたかった。冷凍していたソースを茹でたパスタに絡め、作りおきの惣菜を盛り付け終わると、気分は落ち着いていた。

「いただきます」

「いただきます……あ、わたしこれ好き」

「そうか」

 わざとらしく明るい声を上げた梓に、苦笑してしまう。

 しかし、梓はそれを見てホッとしたようだった。

(こんなにわかりやすいのに、隠せると思ってんのかな)

 なにかに悩んでいることも、碧惟に言いたいことがあるのに言い出せないことも、碧惟の機嫌が直って安心しているのも、全部お見通しだ。

「明日は迎えに行けないけど、大丈夫か?」

「あ……はい、もちろん、大丈夫ですよ。なに言ってるんですか、いつも一人で帰ってるのに」

「……そうだな」

 梓は不安そうな目をしたあと、また虚勢を張った。

 あからさますぎて全く隠せていない。呆れてしまうのに、その健気さが愛おしい。

「気をつけて帰れよ。俺も外出するけど、早めに帰ってくるようにするから」

「はい!」

 たったそれだけの言葉で元気を取り戻した梓は、もりもりと頬をふくらませるようにパスタを食べている。

(こいつのうまそうに食う顔を奪うやつがいたら、許さない)

 そう心に誓いながら、明日は今日の詫びに弁当でも作ってやろうと思うのだった。

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