料理研究家の婚約レッスン
 梓の肩をギュッと抱いてから、碧惟は梓を離し、武の間近に寄った。

 碧惟の方が、10センチ近く背が高い。胸が着きそうな距離で見下ろされた武は、気圧されたように後ずさった。

「あんたの出る幕はないよ。二度と彼女の前に現れるな。もし、彼女に付きまとったら、一生後悔させてやる。そのくらいのことは、俺でもできるんだ。……わかるな?」

 碧惟がトンッと拳で心臓を突くと、武がよろめいた。

「返事」

「わ……わかった」

「……梓と別れてくれて、礼を言うよ」

 わずかに口角を上げながら碧惟が再度拳を持ち上げると、武は慌てて去っていった。

 住宅街に、静寂が戻る。

「先生……」

「ただの知り合いだと? よく言う」

「……すみません」

「家にまでつきまとわれて。昨日と今日だけか?」

「はい」

「本当に?」

「それは本当に」

「どれは嘘なんだ」

 押し黙った梓に、碧惟がゆっくり近づいてくる。

 微動だにできずにいると、碧惟は大きく手を広げ、梓をギュッと抱き締めた。

「……無事で良かった」

「ごめんなさい」

「無事なら、それでいい」

「……先生っ」

 碧惟の体温に、張り詰めていた梓の気持ちが緩んでいく。

 嗚咽をこらえる頭を撫でられると、もうダメだった。

「せんせっ……怖かったっ……せんせい……ごめんなさっ」

「うん」

 ひとしきり泣いて、武の恐怖が去ると、また別の恐怖が来た。

 ブルッと身を震わせた梓の顔を、碧惟がのぞき込む。

「先生、どうしよう……先生がわたしの婚約者だなんて嘘、誰かに広められたら……!」

 青ざめる梓を、碧惟は笑い飛ばした。

「おまえは、俺を結婚させたかったんだろ?」

「それはそうですけど、でもこんな嘘……」

「おまえが本当に俺と付き合えば、いいんじゃないか?」

「……え?」

 碧惟は、涙でぐしょ濡れの梓の顔を、両手で拭う。

「俺はおまえに傍にいてほしいよ。おまえは嫌か?」

「嫌だなんて、そんなことっ! わたしは先生が好きだから、うれしいけど……あっ、あのっ、今のはそのっ、嘘、じゃないけど、でも気にしないでください。わたしおかしな期待とかしてないし……ごめんなさい!」

 つい本音を漏らした梓を、碧惟はまた抱き締める。

「こんなに一所懸命に惚れられて、かわいくないはずないだろ」

「え?」

「おまえが俺に惚れてることなんて、とっくに丸わかり」

 碧惟は、梓の顔をのぞきこんだ。

「いいか、おまえは俺のもんだ。よーく覚えておけよ、梓。俺は、おまえを離してやらないからな」

「……はいっ!」

「よし、じゃあ家に帰ろう」

 梓の頭を撫でながら、碧惟が笑う。

 作り物じゃない、梓の大好きな優しい笑顔だった。

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