料理研究家の婚約レッスン

出海碧惟

 地下鉄の地上出口を出ると、北風が強く吹いていた。出海碧惟のスタジオ兼事務所があるという都心の駅だ。梓にとっては初めての地下鉄だったので乗り換えに手間取ったが、約束の10時にはなんとか間に合いそうだ。

 栃木に比べれば暖かいと聞いていた東京は、雪こそないものの故郷では見慣れない背の高いビルが木枯らしを勢いづけている。梓は、マフラーをギュッと首に巻きつけた。

 道路に設置してある地図とスマートフォンの地図アプリを見比べてから、歩き出す。

 目を開けていられないほどの風だ。左手にスマホをにぎりしめ、右手ではためく髪を押さえる。一歩あるくのに、1メートルの段差を上がるような力がいった。

 それでもコンクリートを踏みしめながらズンズンと歩いていくと、ただでさえ力んでいた梓は、たった5分ほどの距離だというのに、息があがってしまった。

 目的地は、低層階のマンションだった。高級マンションといえば高層のイメージがあったが、こういった建物に縁のない梓にも、ひと目で上質なつくりとわかる。常緑樹でさりげなく隠してある堅牢なフェンス、落ち着いた色合いの頑丈そうな外壁。そして、むやみに立ち入れない雰囲気をかもしだす立派なエントランス。

 そのエントランスに入り込んで、梓は深呼吸した。大きく膨らませた胸の上に手をのせたくらいでは、バクバクと脈打つ心臓はおさまりそうにない。壊れんばかりににぎりしめたスマホの地図は、今日だけでももう何百回も見た。

 口の中をカラカラにして、そのときを待つ。いまだに心の中では、弥生が回復して「梓ちゃん、ごめんね! もう大丈夫だから」と肩をたたいてくれるのを待っているが、奇跡は起こらない。

 約束の10時になってしまった。

 梓は、震える手で102号室のインターフォンを鳴らした。

「――はい」

 低い男の声が、鼓膜を揺すった。

 艶っぽい声だ。ほんの一瞬、立場も忘れて聞きほれそうになる。

「ウ……ウェルバ・プロダクションの河合と申します。本日お約束させていただいた水上弥生の代理の者です」

「代理?」

「はい。あの、本当に……大変っ、大変申し訳ないのですが、水上は急な体調不良でお伺いできず、わたしが代わりに参りました。本当に申し訳ございません!」

 少し間があいた。

 梓の緊張は最高潮に達した。気が遠のきそうなほどだ。

 足を踏ん張って、なんとかこらえたところで、カチリと解錠の音がした。

「……入って」

「ッ! ありがとうございます!」

 何度も頭を下げながら、梓はマンションの中へと足を踏み入れた。

 エントランスに入って左に折れてすぐが、出水碧惟の事務所がある102号室だった。

 ドアベルを鳴らそうかと手を伸ばす前に、ドアが開いた。出てきた男を見て、梓は思わず息をのむ。

(写真と同じだ!)

 出海碧惟――料理研究家、27歳、独身。推定身長183cm、推定体重68kg。推定なのに、この細かさでデータが出回る有名人。二世のイケメン料理研究家として女性に圧倒的な人気を誇り、テレビの地上波で冠番組をもつ数少ない料理家の一人――。

 弥生にたたき込まれたにわか知識が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。

 有名人を目の当たりにするのは、初めてだった。弥生に見せてもらった本や雑誌で見たままの整った容貌に、釘づけになる。

(すっごい美形……っ!)

 それまで出海碧惟に対しては、弥生が仕事相手として執心しているから多少気にしてはいたもののほとんど無関心で、残りはほんの少しの嫌悪感しかなかった。それでも一瞬、目を奪われてしまった。

 目の当たりにすると圧迫されるようなオーラがあるのだ。長身とスタイルの良さのせいだろう。バランス良く伸びた手足は、同じ人間とは思えない。

 それでいて目が離せなくなる、きれいな顔立ち。切れ長の瞳は、星を入れ込んだように艶めいている。スッと通った高い鼻に、形の良い薄い唇。細くとがった顎が少々冷たい印象を与えていて、クールなキャラに合っている。

 観賞されるために生まれてきたような男性が実在することを、梓は初めて知った。この顔を拝むために、碧惟の番組をテレビの前で待ちわびるファンの気持ちも、わからないでもない。
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