料理研究家の婚約レッスン
乾杯
2人で101号室に入る。
梓が靴を脱ぎ終わると、待ち構えていた碧惟が手を出した。
「はい」
「え?」
わけが分からない梓の左手を、碧惟の右手が下からすくようにして握った。
「いいだろ?」
「え? いいですけど、え?」
こんな甘ったるいことをする人だったのだろうか。
戸惑いながらも、頬は緩んでしまう。
梓の小さな手とは違う、大きくてスラッとした手だ。たくさんの鍋や包丁を握ってきたせいか、手のひらは意外と固くて、マメもある。シミひとつないように見える甲も、よく見ればたくさんの斑点があって、おそらくそれは油はねによるものだろう。
きちんと仕事をしてきた、尊敬する人の手に包まれて、そのしなやかな力を感じるだけで、幸せいっぱいになってしまった。
小学校のときだって、こんなにドキドキしたことはないんじゃないかというほど、胸がときめく。
碧惟はリビングに入ると、立ち止まった。
「乾杯でもするか?」
「そうしたいですけど、先にお話してもいいですか?」
なんとも魅力的な提案だったが、梓はなんとかこらえて言った。
テーブルに座ろうとした梓を、碧惟はソファに座る。いつもは間を空けて座るのに、碧惟がすぐ隣に座るから、梓はそれだけで逃げ出したいような、もっとくっつきたいような気分で、心はぐちゃぐちゃだ。
(刺激が強い……!)
きっと碧惟は女性関係も豊富だったのだろう。それともイタリアで暮らしていたせいだろうか。
武の他には、大学時代に一人付き合ったことがあるだけだった梓には、荷が重い。
「さっきは、ありがとうございました。昨日は、昔の知り合いだと言いましたが、さっきの人は、昔結婚の約束をしてい た人です」
梓は洗いざらい話した。
入社してまもなく、武から告白されて交際を始めたこと。婚約して退職したこと。破談になったこと。
弥生の誘いで東京に出てきたこと。
それから、碧惟の家にやって来たこと。
「おまえ……そんなときに、よく新婚の設定だなんて言い出したな」
「やけくそでした。どん底で、何もわかってなかったんです」
編集プロダクションの仕事も、碧惟の仕事も、わかっていなかった。自分がどんな環境で生きているのか、何が楽しくて何が悲しいのかも、わかっていなかった。
「でも、碧惟先生の企画に関わるようになって、視界が開けたんです」
梓が靴を脱ぎ終わると、待ち構えていた碧惟が手を出した。
「はい」
「え?」
わけが分からない梓の左手を、碧惟の右手が下からすくようにして握った。
「いいだろ?」
「え? いいですけど、え?」
こんな甘ったるいことをする人だったのだろうか。
戸惑いながらも、頬は緩んでしまう。
梓の小さな手とは違う、大きくてスラッとした手だ。たくさんの鍋や包丁を握ってきたせいか、手のひらは意外と固くて、マメもある。シミひとつないように見える甲も、よく見ればたくさんの斑点があって、おそらくそれは油はねによるものだろう。
きちんと仕事をしてきた、尊敬する人の手に包まれて、そのしなやかな力を感じるだけで、幸せいっぱいになってしまった。
小学校のときだって、こんなにドキドキしたことはないんじゃないかというほど、胸がときめく。
碧惟はリビングに入ると、立ち止まった。
「乾杯でもするか?」
「そうしたいですけど、先にお話してもいいですか?」
なんとも魅力的な提案だったが、梓はなんとかこらえて言った。
テーブルに座ろうとした梓を、碧惟はソファに座る。いつもは間を空けて座るのに、碧惟がすぐ隣に座るから、梓はそれだけで逃げ出したいような、もっとくっつきたいような気分で、心はぐちゃぐちゃだ。
(刺激が強い……!)
きっと碧惟は女性関係も豊富だったのだろう。それともイタリアで暮らしていたせいだろうか。
武の他には、大学時代に一人付き合ったことがあるだけだった梓には、荷が重い。
「さっきは、ありがとうございました。昨日は、昔の知り合いだと言いましたが、さっきの人は、昔結婚の約束をしてい た人です」
梓は洗いざらい話した。
入社してまもなく、武から告白されて交際を始めたこと。婚約して退職したこと。破談になったこと。
弥生の誘いで東京に出てきたこと。
それから、碧惟の家にやって来たこと。
「おまえ……そんなときに、よく新婚の設定だなんて言い出したな」
「やけくそでした。どん底で、何もわかってなかったんです」
編集プロダクションの仕事も、碧惟の仕事も、わかっていなかった。自分がどんな環境で生きているのか、何が楽しくて何が悲しいのかも、わかっていなかった。
「でも、碧惟先生の企画に関わるようになって、視界が開けたんです」