料理研究家の婚約レッスン
 振り返ると、碧惟がすぐ横でほほ笑んでいた。

「おはよう、梓。起きたら梓がいないから、寂しかった」

 そう言って、梓の頭に軽くキスをした。

 キャーっと割れんばかりの歓声が聞こえ、梓はハッと我に返った。

「え、碧惟先生!?」

(今なにしたの!? みんな見てたよね?)

 慌てふためく梓の肩を、碧惟はしっかりと抱き込む。

「梓、俺を見て。なあ、聞いてた? 梓がいないから、寂しかった」

 ふわりと緩むその表情は、テレビで見せている強気な視線と違う。瞳の奥の影が本当に寂しかったのだと伝えている。

「先生……」

 梓が悟ったことを、碧惟も理解した。

 上出来とばかりに、碧惟が梓の頭を撫でる。

「もしかして、俺のためにブランチを作ってくれるの?」

「は、はい」

「一緒に作ろう。まずは、カポナータだ。そう、ナスが最初だな。ああ、その前に手洗いだ。さっきは、よくできていた」

「見てたんですか?」

 口の端だけで笑うと、碧惟は手を洗った。転がったナスを拾い上げてサッと洗い、まな板に載せる。

「さあ、やってみて」

 梓の手は、まだ震えている。

「大丈夫だよ。俺がついてる」

 そう言って、梓の後ろから抱きしめるように腕を回す。

「先生っ!?」

 振り払おうとする梓を軽くあしらい、碧惟は梓の優しく拘束する。

 こうして碧惟は、何度も梓に料理を教えてくれた。

「左手は軽く握って、ナスを押さえて。包丁は、どうやって持つんだった?」

「……こうです」

「そう。右足を一歩引いて、俺にもっと近づいて」

 碧惟が梓のウエストを引き寄せると、悲鳴のような歓声が上がった。

 梓がビクリと体を揺らすが、碧惟は動じない。

「俺の言うとおりにして、梓。俺だけ見て」

「……はい、先生」

 碧惟のこれまでのイメージを崩すありったけの甘い言葉に、観客からは悲鳴が飛ぶ。

 その声も、梓には聞こえなくなった。碧惟に集中する。

「そう、それでいい」

 碧惟も周囲を無視して、梓を甘ったるく見つめる。

「指、気をつけろ。おまえのかわいい指を傷つけたら、許さないよ」

 心臓が痛いほど、高鳴っている。

「味見」

 口の前にスプーンを差し出され、梓は顔を赤らめながらも口を開いた。

「おいしい?」

「……はい」

 碧惟にドキドキさせられっぱなしのまま、料理は順調に仕上がっていく。

 オーブンが鳴って、イワシのベッカフィーコを取り出した。鍋から、カポナータをたっぷりと装う。華やかに盛り付けられたオレンジのサラダにドレッシングをかければ、完成だ。

「先生、できました!」

「ありがとう、俺の奥さん」

 撮影用のテーブルの上に料理を並べた梓を、碧惟が後ろから抱き込む。

「愛してるよ」

「先生ッ!?」

 梓の頬に、キスをする。

「梓。結婚しよう。俺と毎日一緒にメシ作って、一緒に食おう」

「……はい!」

 梓の瞳が潤む。

 碧惟がサッと梓と唇を合わせると、会場は騒然とした。

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