料理研究家の婚約レッスン
 フォカッチャの作り方は、実に簡単だ。材料を混ぜて捏ねる。発酵させたら、ガス抜きをする。成形し、二次発酵させたら焼く。それだけ。
 しかし、梓にとっては、何をするにも一苦労らしい。

「え、先生。なんか変な匂いする。わたし、なにか間違えちゃいました?」
「いや。イーストの匂いだろ。なにも変じゃない」

 慣れないイーストの香りに戸惑い、鼻に皺を寄せる。
 材料を混ぜ始めれば、すぐに驚きの声を上げた。

「うわ。こんなに手にくっついていいんですか?」
「大丈夫だ。しばらくすれば、まとまってくる。……が、やっぱりホームベーカリーを使えば良かったんじゃ?」
「だって、先生のレシピの通りにやりたいと思って!」
「ホームベーカリー使用時の方法も書いてあったけど」
「えぇっ!?」

 仕方ないなと口では言いながらも嬉しそうに、碧惟は梓の後ろに立つ。

「ほら、こうして生地をまとめながら、捏ねるんだ」

 囲い込むように手本を見せた。

「ボウルを押さえているから、やってみな」
「はい! こうですか?」
「そう。ボウルのへりに残っている生地も集めて」

 先は長そうだと思いながらも、それが嬉しい。
 素人に教えることなど、面倒以外の何ものでもないと思っていたが、梓と出会って変わってきた。梓と暮らすようになって、碧惟は世話焼きな自分をようやく自覚したのだ。

 もっとも、そうでもなければ料理教室など主宰していなかっただろう。
 しかし、梓と出会って自分の性格を自覚してから、料理教室で生徒を指導することも、以前より楽しくなった気がする。料理に仕事に恋愛に、不器用ながらもぶつかっていく梓を見守り、ときに支えることに、自分でも驚くほどの喜びを得ていた。

 生地が一つの球になったところで、作業場をボウルの中から調理台へと移す。生地をよく練るため、広い台で作業するのだ。
 生地を伸ばし、調理台へ叩きつけ、しっかりと捏ねる。

「わあ、パン作りって気がします」
「しっかり力を入れてな」
「はい!」

 碧惟が見本を見せてから、梓が真似をする。
 今度は、ボウルを押さえる必要もないので、碧惟は手持ち無沙汰だ。視線は生地を追っているが、鼻先は眼の前の梓の頭に埋めてみる。

「ちょっ! 何してるんですか!?」
「別に何も? 手を止めるなよ」
「うぅ……はい」

 梓が、おとなしく手を動かし始めたので、徐々に体を下ろしていって、うなじに唇をつけた。後れ毛が、頬をくすぐるのが鬱陶しくも心もくすぐられ、音を立てて肌を吸う。
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