料理研究家の婚約レッスン
 腕の中に大切に抱えていたものが抜け出そうとする気配で、出海碧惟はゆっくりと覚醒した。大事なものを逃さないよう、しっかりと抱き込む。

「ん……碧惟さんったら」

 耳をくすぐる声に、この温かなものが恋人だと悟る。

「先生、もう少し寝ますか?」

 モゾモゾと動く梓を手探りで引き寄せ、碧惟は唇を合わせた。

「おはよう、梓」
「……おはようございます、先生」
「先生? さっきはあんなに何度も呼んで……」
「い、言わなくて良いです!」
「だったら?」
「………………碧惟さん」

 ゆっくりと瞼を上げると、目の前の梓は可憐に頬を染めていた。
 しかし、つい先ほどは、全身を真っ赤にさせたことを思い出し、碧惟は内心首を傾げる。

「もう服を着てんだ?」
「もう夕方ですよ。お腹すきませんか? 簡単ですが、用意しました」

 碧惟が起き上がると、梓はサッと顔を背けた。碧惟が何も身に着けていなかったからだろう。
 後ろから頬に口づけると、まだ初々しい梓に、碧惟は耳元で感謝をささやく。

 この後、二人でワインを開けるだろう。そして、梓が用意したという食事をつまみ、二人で作ったフォッカッチャをああだこうだ言いながら食べるのだ。
 どんなものであれ、梓が用意してくれたことが嬉しい。二人で作ったことが楽しい。二人で食べるからおいしい。
 梓は、そんな原始的な幸福を思い出させてくれた。

──戻れそうにないな。

 イタリアで働いていたときにしていたルームシェアも、恭平と暮らしていたときも楽しかったが、梓といるときは格別だ。恋人との同居は、家族や友人との気楽な暮らしとはまた違うスパイスと安らぎに満ちている。

 もっとも、梓が家族になるのは、やぶさかではない。
 一連の言葉がどこまで"本当"のことだったかは置いておいて、どうやら梓の言った通りになっているようだ。不思議と碧惟は、それを快く思う。
 梓にそれを言えば、きっとあのときの言葉は、単に気の持ちようを表しただけであり、いわば演技だったと弁解するだろう。

 慌てふためく姿を目に浮かべながら、碧惟はプロポーズを予定している自分に気づいたのだった。






   - 終 -
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