料理研究家の婚約レッスン
弥生の想い
梓は見慣れた会社の最寄りの駅に着くと、大きく息をついた。ホッとしたのか、ドッと疲労が押し寄せてきたのだ。
打ちひしがれていたせいか、乗り換えで間違えてしまったため、かなり時間がかかってしまった。
改札を出ると、ようやくまともに考えられるようになり、博子に「会社の駅まで戻りました」とメッセージを打った。
しかし、その後が続かない。何度か指をスマートフォンの画面に滑らせたものの、結局何も入力せずに、足を引きずるようにして会社に戻った。
緊張しながら会社まで戻る。ドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。
予定通り、誰もいないのだろう。出るときにかけた鍵で、中に入った。
無人の事務所を見渡すと、目頭が熱くなってきた。
会社の人に合わせる顔がないと思っていたが、誰もいないというのもまた落ち込んだ心に拍車をかける。
「……なんて言おう……」
まずは、博子に報告をしなければならない。それから、もちろん弥生にも。
重たい気持ちが錨になっているようで、足が動かない。
ぼうっと突っ立っていると、ふいに会社のドアが開いた。ビクリと大きく体を揺らして振り返ると、博子が入ってくるところだった。
「副社長……」
「まだ地下にいたから、メッセージを見て、打ち合わせを抜けてきたの。その様子じゃ……」
博子は一瞬くちごもったが、すぐに気を取り直してはっきりと「ダメだった?」と尋ねた。
「……はい、すみません」
気を落とす梓の肩を、博子がポンとたたく。
「仕方ないわ。急に行かせて悪かったね」
「いえ、本当にすみません。あの……弥生さんから連絡は?」
「さっきあったわ。病院に行ったみたい。何日か休むと思うから、よろしくね」
「そんなに具合が悪いんですか!?」
「うーん、そうねぇ……」
元々青ざめていた顔色を白くするほど慌てた梓に、博子は困ったように腕を組んだ。
「何か知っているなら、教えてください。わたし、弥生さんの役に立ちたいんです! 弥生さん、悪い病気なんですか?」
梓が取り縋ると、博子はしばらく考え込んだ。
「……弥生ちゃんから、あなたにはまだ言わないで欲しいって言われたけど、これからあなたにももっと仕事を手伝ってもらわなきゃいけないから、やっぱり言っておくわね」
梓は、ゴクンと唾を飲む。
「弥生ちゃんのおなかには、赤ちゃんがいるの」
「……え?」
「安静にしなきゃいけない時期だから、弥生ちゃんの分も、みんなでがんばりましょうね」
「……はい」
「じゃあ、わたしは打ち合わせに戻って、このまま外出するから、留守をお願い。あとで詳しく報告してね」
「わかりました。いってらっしゃい」
博子は、すぐに出かけていった。事務所には、梓一人が残される。
弥生が、妊娠していたとは、知らなかった。正月には、二人で長い時間会っていたのに、そんな話題はまったくでなかった。
それに、弥生が口止めしていたというのが気になる。
単に、まだ妊娠初期だから、家族などにしか打ち明けていなかったというなら、いい。会社をしばらく休むことになったため、雇用主である博子にだけは話したというのも自然だ。
でもきっと、優しい弥生のことだから、そうではない。
子どもが原因で梓の婚約が破談になったことを知っているから、だからこそ今の梓には明かさなかったのだ。
(弥生さんに、こんなに気遣われているのに……)
自分は、弥生が大切にしていた仕事を、あっという間に潰してしまった。
「……あぁ、どうしよう……」
頭を抱えて、デスクの上に伏せる。
弥生は梓からの連絡を、いまかいまかと待っているだろう。どんなに体調が悪くても、電話を手放さずにいる様子が目に浮かぶ。
そして、たとえどんな結果であろうとも、梓を責めることはないだろう。当日に行けなくなってしまった自分を責め、自分が出向いてもきっと同じ結果になったと、梓をなぐさめさえするかもしれない。
そういう人だ。だからこそ、こんな結果は報告できない。
かといって、いつまでも伝えないわけにもいかなかった。
弥生の電話番号を携帯電話に表示させては消し、メールを書きかけては消すのを繰り返していると、静まり返った社内に、電話の音が鳴り響いた。会社の代表電話への着信だった。
梓は、慌てて気持ちを切り替えると、姿勢を正して受話器を取った。
打ちひしがれていたせいか、乗り換えで間違えてしまったため、かなり時間がかかってしまった。
改札を出ると、ようやくまともに考えられるようになり、博子に「会社の駅まで戻りました」とメッセージを打った。
しかし、その後が続かない。何度か指をスマートフォンの画面に滑らせたものの、結局何も入力せずに、足を引きずるようにして会社に戻った。
緊張しながら会社まで戻る。ドアを開けようとしたが、鍵がかかっていた。
予定通り、誰もいないのだろう。出るときにかけた鍵で、中に入った。
無人の事務所を見渡すと、目頭が熱くなってきた。
会社の人に合わせる顔がないと思っていたが、誰もいないというのもまた落ち込んだ心に拍車をかける。
「……なんて言おう……」
まずは、博子に報告をしなければならない。それから、もちろん弥生にも。
重たい気持ちが錨になっているようで、足が動かない。
ぼうっと突っ立っていると、ふいに会社のドアが開いた。ビクリと大きく体を揺らして振り返ると、博子が入ってくるところだった。
「副社長……」
「まだ地下にいたから、メッセージを見て、打ち合わせを抜けてきたの。その様子じゃ……」
博子は一瞬くちごもったが、すぐに気を取り直してはっきりと「ダメだった?」と尋ねた。
「……はい、すみません」
気を落とす梓の肩を、博子がポンとたたく。
「仕方ないわ。急に行かせて悪かったね」
「いえ、本当にすみません。あの……弥生さんから連絡は?」
「さっきあったわ。病院に行ったみたい。何日か休むと思うから、よろしくね」
「そんなに具合が悪いんですか!?」
「うーん、そうねぇ……」
元々青ざめていた顔色を白くするほど慌てた梓に、博子は困ったように腕を組んだ。
「何か知っているなら、教えてください。わたし、弥生さんの役に立ちたいんです! 弥生さん、悪い病気なんですか?」
梓が取り縋ると、博子はしばらく考え込んだ。
「……弥生ちゃんから、あなたにはまだ言わないで欲しいって言われたけど、これからあなたにももっと仕事を手伝ってもらわなきゃいけないから、やっぱり言っておくわね」
梓は、ゴクンと唾を飲む。
「弥生ちゃんのおなかには、赤ちゃんがいるの」
「……え?」
「安静にしなきゃいけない時期だから、弥生ちゃんの分も、みんなでがんばりましょうね」
「……はい」
「じゃあ、わたしは打ち合わせに戻って、このまま外出するから、留守をお願い。あとで詳しく報告してね」
「わかりました。いってらっしゃい」
博子は、すぐに出かけていった。事務所には、梓一人が残される。
弥生が、妊娠していたとは、知らなかった。正月には、二人で長い時間会っていたのに、そんな話題はまったくでなかった。
それに、弥生が口止めしていたというのが気になる。
単に、まだ妊娠初期だから、家族などにしか打ち明けていなかったというなら、いい。会社をしばらく休むことになったため、雇用主である博子にだけは話したというのも自然だ。
でもきっと、優しい弥生のことだから、そうではない。
子どもが原因で梓の婚約が破談になったことを知っているから、だからこそ今の梓には明かさなかったのだ。
(弥生さんに、こんなに気遣われているのに……)
自分は、弥生が大切にしていた仕事を、あっという間に潰してしまった。
「……あぁ、どうしよう……」
頭を抱えて、デスクの上に伏せる。
弥生は梓からの連絡を、いまかいまかと待っているだろう。どんなに体調が悪くても、電話を手放さずにいる様子が目に浮かぶ。
そして、たとえどんな結果であろうとも、梓を責めることはないだろう。当日に行けなくなってしまった自分を責め、自分が出向いてもきっと同じ結果になったと、梓をなぐさめさえするかもしれない。
そういう人だ。だからこそ、こんな結果は報告できない。
かといって、いつまでも伝えないわけにもいかなかった。
弥生の電話番号を携帯電話に表示させては消し、メールを書きかけては消すのを繰り返していると、静まり返った社内に、電話の音が鳴り響いた。会社の代表電話への着信だった。
梓は、慌てて気持ちを切り替えると、姿勢を正して受話器を取った。