副社長と恋のような恋を
 会議室を出ると、エレベータは混み合っていた。二つ下の階に行くだけだし、階段でいいかと思い、階段のほうへ続く廊下を歩き出した。

 階段を下りようとした瞬間だった。突然手首を掴まれた。そして自分よりも大きな影が体を覆った。

「五か月ぶりだね。都築麻衣さん」

 後ろを振り向くと副社長が立っていた。

「あの、なんのことですか?」

「あれ、もう忘れちゃった? 君の誕生日を祝った名もない男だよ」

 あの日、バーにいた男性は副社長だったの? でも、どうして。今の格好とあの日の格好はまったく違う。気づくはずがない。それにペンネームがわかったなんて。

 あまりのことで声も出ない。体も動かすことができず、ただ副社長を見つめた。

「その顔だと、どうしてわかったのかが気になっているんでしょ。今夜答え合わせしよう。あのホテルのラウンジで待ってて」

 副社長は私の返事も聞かずに去って行った。

 どうしよう。どうしよう。行かない、は駄目だよね。相手は副社長だし。私ここの社員だし。作家をやっていくためにも、収入は大事だし。

 とりあえず階段をのろのろと下りた。

 そして酷く後悔した。あのとき、あんなにいろいろとしゃべるんじゃなかった。作家ってことで、随分とくさいことを言ってしまったような気がする。思い出すだけで、顔や耳、首まで熱を持ってしまう。
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