副社長と恋のような恋を
「ああ、ごめん。行こう、麻衣」

「それはちょっと」

 謝る気などない顔に向かって、力なく否定してみた。

 副社長は私の手を握り、耳元に顔を近づける。

「言ったよね。副社長と敬語は禁止って」

 副社長の顔を見上げる。あまりに近くて目線を外した。

 大好きな作家さんが書いた小説の中で“秘密を知った人との間には絆が生まれる”という一節があった。

 私と副社長に絆などない。私は作家としてネタ探しをしている。それなのにどうしてこんなに副社長の言動に気持ちが動いてしまうのだろう。

 副社長と手を繋いだまま歩く。どこに向かっているのだろう。

 十五分ほど歩くと港がみえてきた。そこには中型のクルーザーが停まっている。副社長の足の方向はあのクルーザーに向かっていた。そのクルーザーの近くにはスーツをきっちりと着こなした男性が立っている。

「予約した川島です」

「お待ちしておりました、どうぞこちらへ。足元にご注意ください」

 スーツの男性が先を歩く。副社長が船に乗り込み、私が船に乗り込むとき体を支えてくれた。

「ありがとうございます」

「いいえ」

 副社長は手を離さないまま進んでいく。私はなぜ船に乗らなければならないのか、さっぱりわからなかった。
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