おじぎ草ときみと(短編集)
一輪の水仙
【一輪の水仙】
ちょっとした行き違いで大げんかをして以来、一度も口をきいていなかったあいつが、町を出て行くらしい。
幼い頃は毎日一緒にいて。あいつは身体が弱かったから、遊ぶのはいつもあいつの部屋。
柱を使って背くらべをしたり、あいつが持っているたくさんの本を読んだり。その本の登場人物になりきってふたりだけの劇をしたり、まだ見ぬ広い世界を想像して胸を高鳴らせたりもした。
でも何年も話していない。目も合わせていない。連絡先も知らないから、もう二度と会うこともないだろう。
寂しく思ってはいけない。お互い謝る機会は何度でもあった。果てしなく長い時間もあった。
でもわたしたちは、謝らなかった。
謝らないことを選んだのは自分たちなのだから、寂しく思う権利はないのだ。
あいつが町を出た朝、玄関先に一輪の水仙が置いてあった。
置いたのが誰なのかはすぐに分かった。あいつだ。
昔一緒に読んだ本に同じ描写があったのをよく覚えている。特にその本は、登場人物とわたしたちの名前が同じで、嬉しくって何度も繰り返し読んでいた。
ああ、ああ……。
こんなことをしてくれるあいつと、もう二度と会えないなんて……、……。
(了)