好きな人は策士な上司(『好きな人はご近所上司』スピンオフ)
峰岸さんはあの日から、何も言わない。返事を急かすようなこともなく、いつも通り仕事の指示をする。
尚樹さんも、自身の転勤については何も話してくれない。そのことが私の胸に小さな影を落とす。

午後十一時過ぎ、お風呂から上がった私は、手の中にあるスマートフォンを見つめている。
あと三十分ほどで尚樹さんがいつも電話をくれる時間になる。だけど今日は私から尚樹さんに電話をかけたかった。聞きたいことがあったから、その決意が崩れないうちに。
いつもどんな時も尚樹さんは私に電話をくれる。どんなに忙しくて時間がないときも、優しい、いつもの低い声で話してくれる。スマートフォンに尚樹さんの名前が表示されると、私の鼓動はいつも嬉しさにピクンと跳ねる。電話なんて何度も何度もかけてくれているのに、いつまでも慣れない。もう二度とかけてくれないわけではないのに、早くでなきゃとはやる気持ちを押さえられないのはなぜだろう。
通話ボタンを押した瞬間、耳に届く尚樹さんの低い声にいつもドキドキする。
『莉歩』
私の名前を呼んでくれる声が好き。
その瞬間、私は世界で一番彼に愛されている女性のような気がするから。尚樹さんにしか生み出せない響き。
ただの上司と部下だった頃は想像もできなかった。また恋をするなんて思わなかった。
尚樹さんは、知っているだろうか。
尚樹さんからの電話ひとつにこんなにも振り回されている私のことを。
彼が私に向けてくれる眼差しひとつに、呼び声ひとつにこんなにも幸せを感じていることを。
その幸せを知ってしまった今、もうあの時のように離れ離れになることを考えられない。そんな悲しみには耐えられない。
だからこそ守られるばかりではなく守れる人になりたい。
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