好きな人は策士な上司(『好きな人はご近所上司』スピンオフ)
叫び出したい気持ちは喉のすぐそこまで込み上げているのに、涙さえ零れ落ちそうなのに、すべてを滅茶苦茶に壊す自信のない私は何も口にできない。こんな私が尚樹さんを責められない。私の沈黙を不安と捉えたのか、尚樹さんは優しい声で諭すように言う。
「大丈夫。そんなすぐには動かないから。莉歩をひとりにしない」
どこか曖昧な線引き。核心的なことは何ひとつ言わない。悔しいくらいに上手な逃げ方なのに、安心感は相手に十分に与えてしまう。信じたいのに、きっと何も知らなかったら信じれていたのに、今はそう思えない。
静かに溢れだした涙は何の意味をもっているのだろう。
私のために嘘をつく彼への感謝、悲しみ? 隠されたこと、はぐらかされたことへのショック? 否定されなかったことで募る転勤への不安? 彼をそのまま信じることができない自分への悔しさ? すべてをぶち壊すかのように取り乱して彼に本心を吐き出せない自分の不甲斐なさ?
気持ちがぐちゃぐちゃになってわからない。
大好きなのに、大切なのに、ただそれを守り抜きたいだけなのに。それだけのことがどれだけ難しいかを思い知らされた。
「莉歩?」
私の名前を呼ぶ大好きな甘い声。その声さえも、今は胸に痛い。
「うん、大丈夫、わかってる」
返事にならない返事しかできない。
弱くて意気地がない私にはそんなことしかできない。
電話でよかった。泣いていることを悟られない努力はまだできるから。
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