好きな人は策士な上司(『好きな人はご近所上司』スピンオフ)
「はい、筆記試験の結果。おめでとう、合格よ」
久住さんがやってきた日の翌日。峰岸さんがそっと私に言う。
「来週から四日間東京で研修よ。最終日に最終面談があるから」
「は、はいっ。ありがとうございます!」
筆記試験の合格にほっと胸を撫で下ろす。
結局、久住部長との面談は峰岸さんの立ち会いのもと、面談なのか雑談なのかわからないまま終わってしまった。今、久住部長は外出から戻ってきた尚樹さんと一緒に札幌出張のもうひとつの目的である取引先の視察に向かっている。
尚樹さんの顔を見るのは久し振りだった。
今朝、よく知っている切れ長の二重の目に見つめられて、否応なしに胸が高鳴った。焦げ茶色の瞳がゆっくりと細められて、営業フロアですれ違い様にぽんと頭を撫でられた。「久し振りだな」と優しい低音が耳をくすぐる。
手が離れる一瞬に、ほんの少しだけ屈んだ尚樹さんが掠めるように私の耳に触れた。トン、と彼の長い指先が伸びた私の髪の上からピアスに触れる。その然り気無い仕草に、恥ずかしいくらいに鼓動が跳ねた。
「行ってきます」と振り返りながら歩き出す尚樹さんの甘い目を見つめ返す私の顔は、情けないくらいに真っ赤に染まっていた。
叫びだしたくなる気持ちを、抱えたファイルごと抱きしめる。もっと近付きたい、触れたい、と甘い痛みが胸を締めつけて泣きたくなった。
やっぱり尚樹さんの前ではきちんと話せない。話したいことは胸をつくのに、顔を見るだけで気持ちが溢れてしまう。
尚樹さんが職種変更をどう思うか、その反応が怖くて、勝手に決めたことが後ろめたくて、嫌われることが怖くて、結局口をつぐんでしまう。前に進みたくて決めたことなのに、決めたことすら報告できないなんて、私はどこまで意気地がないんだろう。
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