好きな人は策士な上司(『好きな人はご近所上司』スピンオフ)
翌日から私は通常業務に復帰した。
「正式な合格発表が渡されるのは来月以降になる」と峰岸さんが教えてくれた。
尚樹さんが戻ってきてくれるまであと数日だ。寂しくないと言えば嘘になるけれど、心は驚くほど落ち着いている。こんな風に同じ支店で仕事をすることができる時間はあとわずか。それはとても悲しい。
尚樹さんの声が聞けなくなるなんて、姿を見ることが全く出来なくなるなんて想像すらできない。心のなかにぽっかり穴が空いた気持ちになる。
だけど、負けない。絶対に追いかけるし、離れない。そう決めたし、約束した。だって私は尚樹さんが大好きだから。

私にとっては長い数日が経って尚樹さんが札幌支店に戻ってきた。午後六時半前という時間だった為、殆どの人が退勤していた。支店長と河田さん、峰岸さんは会議室で会議中だった。私は尚樹さんの机の書類を重要性の高いものの順に整理し終えて、パソコンの電源を落とす直前だった。
「ただいま、莉歩」
聞きたかった声が背後から聞こえた。いつもと変わらない彼のチョコレート色の瞳を目にした途端に視界が歪む。
「泣かないの」
くしゃり、尚樹さんが私の頭を長い指で撫でて困ったように目尻を下げて笑う。
「お帰りなさい、尚樹さん」
瞬きを繰り返して涙を押し止めた私は顔を上げる。
「あらお帰りなさい、桔梗くん」
峰岸さんが支店長、河田さんと一緒に営業フロアに戻ってきた。
「峰岸、助かった。ありがとう」
物凄く恥ずかしそうに小さな声で尚樹さんが峰岸さんにお礼を言う。
「いいわよ、貸しにしといてあげるから」
ふふんと峰岸さんが得意気に笑う。尚樹さんは苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「ごめん、莉歩。俺、まだ仕事があるからひとりで帰れるか?」
心配そうな尚樹さんが私の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫」
いきなりの至近距離にドキドキする。
「気を付けて帰れよ」と峰岸さんの仏頂面をよそに尚樹さんは優しく言ってくれた。
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