好きな人は策士な上司(『好きな人はご近所上司』スピンオフ)
先刻の女性に向けていた冷たい声が嘘のように、感情に富んだ声。困ったように片眉を下げて笑う。まるで私に会えて嬉しいかのように。一瞬で目が奪われる。
道行く女性たちから、どれ程視線を向けられているのかわかっているのだろうか、この人は。

『何でこんなところにいるんですか? 仕事、終わったんですか?』
顔を見ながらスマートフォンを使って話を続ける。
取引先から帰社したばかりだと知っているのに、あえて知らない振りをする。
『終わるわけないだろ、さっき帰ってきたの。あそこの部長の話が長いわ、嫌味は言われるわ、散々で、藤井に癒してもらおうと思ったのにお前はいないし』
溜め息をつきながらうんざりした表情で言う桔梗さん。彼もスマートフォンを使って話すのをやめるつもりはないらしい。その証拠に彼と私の距離は縮まらない。
『……だから追いかけてきたんですか?』
トクン、と小さくはずむ鼓動に戸惑う。一瞬、嬉しいだなんんてどうして思ってしまったんだろう。
『そう』
綺麗な笑顔を浮かべて悪びれもせずに言う。
『私はペットじゃありません。さっさと戻ってください。現物が締めれなくて瀬尾さんに怒られますよ』
動揺を悟られたくなくて素っ気ない口調になってしまう。
『はいはい。なあ、藤井。何かあった?』
さっきと同じ質問。今度は真っ直ぐ焦げ茶色の瞳を見つめて首を横に振る。
『そっか。お前の説教も聞けたし、戻るわ。あ、これ、俺の私用の番号な。レアだから死守しろよ? で、話したいことあったらかけてこい』
トントン、と長い指でスマートフォンをつついて、悪い笑みを浮かべる上司。そんな姿さえそこはかとない色香を漂わせている。
『い、いりませんよ! そんな番号! 消去します!』
即座に言い返す。頰が熱い。
『はいはい』

『気を付けて帰れよ』そう言って通話を切った上司。踵を返して人混みに紛れていく後ろ姿を、私は歯軋りしながら見つめていた。
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