好きな人は策士な上司(『好きな人はご近所上司』スピンオフ)
暴れ出す鼓動を持て余しながら、俯いて再び歩く。
『へぇ、俺の家からお前の家、本当に近いな。十分、かからないだろ』
私の自宅マンション前で、桔梗さんは腕時計を見ながら感心したように言う。
『そうですね。近いからと言って、特に何もないですが』
熱くなる頰を隠すようにいつもより素っ気なく話す。
『お前ね、何回も言ってるけどそこは喜ぶところだって!』
呆れたように言う桔梗さんはいつもと変わらない。

『……喜んでますよ』
思わず零れた本音。
『は?』
『今日は食事に行けて嬉しかったです、ありがとうございました』
ぺこりと頭を下げる。普段なら絶対にこんなこと言わない。思っていても言えない。この人たらしの上司には伝えない。だけど今日は、今は。色々なことで心が弱ってしまったから、少しだけ甘えているだけ。素直になりたいだけ。
借りていた上着を脱いで、クリーニングしなくていいのかを再度確認しようと顔を上げた私の目が大きな手でふわりと覆われた。

『き、桔梗さん!?』
いきなり覆われた視界に驚く。
『ちょっと……それは反則』
なぜかぶっきらぼうに言われる。
『な、何がですか? 上着、クリーニングどうしますか……ってちょっと、もうっ桔梗さん。手をどけてください、見えないです!』
長い指を引き剥がそうともがく私。
『見なくていい!』
嚙みつくように叫ぶ桔梗さん。こんな声は初めて聞く。
『意味わからないです! 何なんですか!』

結局、桔梗さんの気が済むまで手をどけてもらえず。私の心拍数だけがずっと暴走していて、上着のクリーニングは有耶無耶になってしまった。

それはまだ、桔梗さんと私の関係が上司と部下だった懐かしい日のこと。桔梗さんと私の距離が変わらなかった日のこと。
< 36 / 163 >

この作品をシェア

pagetop