好きな人は策士な上司(『好きな人はご近所上司』スピンオフ)
「莉歩ちゃん、珍しいわね、眼鏡なんて」
金子さんに朝一番に言われた。
翌日。
腫れてしまった目を必死でメイクで誤魔化したけれど、隠しきれなかった。コンタクトも入りそうになく、やむをえず、眼鏡をかけて出勤した。
桔梗さんは今朝は取引先に直行のため会っていない。帰社は昼過ぎの予定だからできるだけ顔を会わせずにいたい。来週から桔梗さんは研修が入っていて不在の日が増える。とりあえず暫くは何とかなる気がする。

昨夜、桔梗さんからの電話に初めて出なかった。私が退社した時間から何度も着信があった。平然と話すことも、かけ直すこともできなかった。
「ちょっと目の調子が悪くて」
私はぎこちなく答える。
「そうなの? 体調も悪そうよね、顔色が悪いわ。あまり無理をしちゃダメよ」
母親のように優しく話してくれる金子さんに頷く。
機械的に仕事をこなす。目の前にある業務をひとつずつ処理していく。淡々と何も考えず、決まったマニュアル通り、手順通りに。
恋も、マニュアルがあればいいのに。手順があればいいのに。そうしたらきちんと処理できるのに。こんなにも情けない自分でいなくてすむのに。

「桃ちゃん。じゃ、それ処理終わったら連絡して」
パーティションの向こうから聞き慣れた上司の声がしてビクリ、と肩が跳ねた。
『桃ちゃん』
店内の女の子を下の名前で呼ぶ声にツキリ、と胸が軋む。今までと何も変わらないことなのに、涙が滲みそうになった。
こんなんじゃ、ダメだ。しっかりしなきゃ!

勢いよく机の引き出しを開けて私物バッグを取り出す。
「すみません! お昼、休憩に行ってきます」
驚きながらも金子さんは私を送り出してくれた。早く、早く。桔梗さんが自席に戻る前に。ここから逃げ出したい。
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