好きな人は策士な上司(『好きな人はご近所上司』スピンオフ)
駆け足で二月は過ぎて、急ぎ足で三月がやってきた。期末は何かと忙しい。
普段から忙しい桔梗さんも例外ではなく。新制度のこともあり輪をかけて忙しくしているようだった。ここ数日は道内への出張に加え、取引先との接待が続いていて、電話で殆ど話していない。

「藤井さん、桔梗さんは明日、来ます?」
「藤井さん、明後日までに桔梗さんに印鑑もらって」
支店の皆から渡される書類や雑務で、私の大きくはない未処理箱はいっぱいになる。
「さすが莉歩ちゃんは有能な秘書ね」
期日の近いものを選り分けて、付箋を貼って桔梗さんの机に置く私を見て金子さんが苦笑する。
「本当に。私にもそんな有能な秘書がほしいわ。桔梗くんは贅沢よね」
帰社したばかりの峰岸さんがキャメル色のコートを脱ぎながら言う。雪の雫がきらきらと光る。峰岸さんの席は以前瀬尾さんが使っていた桔梗さんの隣の席だ。
「お帰りなさい、峰岸さん。急ぎの電話はそこにメモしてます」
「ありがとう、助かるわ。藤井さん、桔梗くんを甘やかさなくていいわよ。本当にあなたにだけは甘えるんだから、困った男ね」
眉間に皺を寄せながら峰岸さんが言う。
「桔梗さんは莉歩ちゃんが大好きだものね」
金子さんが峰岸さんに伝票を検印してもらいながら笑う。
「鬱陶しいくらいね」
峰岸さんが後を続ける。その言葉に私の頰が熱をもつ。
「す、好き、とかそんなわけ……!」
一瞬だけ驚いた表情をした峰岸さんは、綺麗なオレンジベージュの口紅が塗られた唇でニコッと笑った。
「ふうん。桔梗くん、ちょっとは報われそうね。私としてはもっと悩ませたいけど」
「峰岸さん、意地悪ですね」
金子さんがクスッと笑う。
「そう? 見てて焦れったいのよねえ。警戒心剥出しの子ウサギを必死に手懐けようとしている大型犬って感じ?」
「ですって、莉歩ちゃん」
ふたりの会話がよくわからない。
バレンタインチョコは結局渡せず、自宅のテーブルに置かれたままだ。そこだけ時が止まっている。時期も過ぎて、本来の贈り主に渡されることなく取り残された姿はまるで私の心のようだ。チョコは私自身で食べてしまえばなくなってしまうのに。賞味期限は四月だし、とか色々言い訳をつけて私はチョコに触れるのを躊躇い続けている。



< 95 / 163 >

この作品をシェア

pagetop