あけぞらのつき
その理由
***
奥座敷に眠る主人には、月の光など届かない。
料理番は相変わらず、小さなランタンの下で、人形のような少女の朱唇に食べ物を注いだ。
「それで、おめおめと戻ってきたのか」
料理番は、畳に手を着いて頭を下げる影に、冷たく尋ねた。
「スイ様に、よくも顔を見せられたものねぇ」
「申し訳……ございません」
「半年かけて調教したタマシイまで奪われて……。でも、長夜叉の居場所はわかったのね」
「はい。夢と現の間に、巣を持っておりました」
「そう」
料理番は、朱唇からこぼれ落ちる食べ物の残骸を気にすることもなく、愛しげな手つきで、少女の頬に触れた。
「スイ様。これで、スイ様の目も、治るかも知れません」
少女はやはり、人形のようにただじっと、されるがままだ。
「ええ、ええ。ムツコには、ちゃあんとわかっております。スイ様が心配なさることは、何一つとしてございません」
榎依(えい)と、料理番が呼んだ。
「それで榎依。あなたの目的は果たせそうなの?」
「……」
「そう。スイ様がお力をお貸しくださったというのにねぇ」
料理番は大げさにため息をついた。
「あの子供のタマシイがなければ、あなたが夢を渡ることなど、できないでしょう」
黒い影は、時折揺らめきながらうなだれた。畳に着いた手には、業火の長刀で引き裂かれた傷が、ケロイドになって残っていた。
あの子供。小野寺仰以。
それは、榎依の呼びかけに応えた、たった一人の人間であった。
縁切り榎と、最初に呼んだのは誰だったのか。太い釘でヒトを模したワラを榎木に打ち付けたその女が、どうなったのか、榎依は知らない。
榎依には、それを確かめる術もない。
だが、その後も太い釘でワラのヒトガタを打ち付ける者が後を絶たなかったことを考えると、きっと、あの女の願いは叶ったのだろう。
かつーん、かつーん、と釘を打つ物悲しい音は、願う者の心の叫びのように聞こえていた。
どうか、助けてください、と。
願う者の恨みは昇華されることもなく、榎依の周りに澱のようになって溜まり続けた。
あの時、助けてと願ったのは、榎依自身だったのかも知れない。