目覚めたら、社長と結婚してました
「すごーい」

 肩より下ほどの高さまであるフェンスに身を寄せ、目の前に飛び込んできたのは、様々な明かりで輝きを放つ住み慣れた街の夜の顔だ。ここに来るまでに通ってきた橋も見える。

「それにしても人、いませんね」

 数歩遅れて、フェンスのところまでやって来た怜二さんに声をかける。意外にも屋上には私たち以外の人の姿はなかった。

「今の時期、蒸し暑いのにわざわざ車から降りないんだろ」

「へー、皆さん車で愛を語らっているんですね。怜二さんも、いつもそうなんですか?」

 なにげなく問いかけると怜二さんはわずかに目を見張った。そしてどこか気まずそうな顔をして私から目を逸らし、目の前に広がる夜景に視線を送る。

「どうだろうな」

 彼は内ポケットに手を滑らせ、煙草の箱を取り出した。その様子を見ながら、私は気になっていたことを口にする。

「なにかありました?」

「なぜ?」

 煙草をくわえようとする彼が、顔はこちらに向けず、鋭い眼差しで端的に聞いてきた。おかげで私はつい、言いよどむ。

「……だって、どこか元気ない感じですから」

「お前みたいにいつも能天気でいられる人間の方が少ないだろ」

「失礼ですね。私にだって悩みくらいありますよ」

「たとえば?」

「たとえば……」

 怜二さんの問いかけに私は言葉を詰まらせる。あちこちに視線を巡らせ言葉を迷ったが、結局なにも言わなかった。

 ややあって煙草の煙と香りが静かな空気に混ざる。口火を切ったのは彼の方だった。
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