彼の隣で乾杯を
デザートの最後のひとくちまで堪能して母屋に戻ると、高橋がスマホを持って立ち上がった。
どうやら電話がかかってきたらしい。

「どうぞ、ご遠慮なく」と言うと高橋は軽く頷いて隣の部屋に消えていった。

「忙しい男ね」
心の中で言ったつもりが思わず声に出ていたことに気が付いてハッとする。

まずい、高橋に聞こえてなかっただろうか。
仕事が忙しいのは仕方がない、私と仕事のどちらが大事なの?などと言うつもりはないけれど、自分の中にも仕事ばかりの恋人に不満を募らせる女の部分があったのだと認めざるを得ない。

なかなか戻らない高橋に少しイラつき、ため息をついて立ち上がると彼がいる部屋と反対側にある露天風呂へと向かった。

もちろん入浴するわけではない。
露天風呂のスペースにはウッドデッキがあり、リクライニングチェアが置かれているのだ。

ミネラルウォーターのボトルを片手に私は空を見上げた。

今夜は新月らしい。
月のない夜だ。

森の中の旅館は静まりかえり、風で揺れる木々のざわめきと時折フクロウらしき鳥の鳴き声が聞こえる。

闇に吸い込まれそう。

都会の喧騒の中で暮らす毎日に疲れているのかもしれない。

不意にまた高橋と共に過ごしたイタリアの湖水地方のホテルを思い出した。
あの湖畔の森のぬかるんだ歩道の湿った苔の匂いも嫌いではない。

「転勤かぁ」

また声になっていた。

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