春待ち町でまた君と
すべての言葉を君に贈るよ
手にふぅっと息を吹きかける。

僕の口から出た白いもやはほんの一瞬顔の前にかざした両手を温めてどこかへ消えた。
気がついた時にはもう、手はさっきより冷たくなっている。

「寒くなってきたなあ」

ひとりごちながら、ちびちびとさっき買ったばかりのラテをすすっていると、後ろから看護師に声をかけられた。

「先生また甘いの飲んでるんですか?」

いつもより砂糖控えめにしたんだよと心の中でちょっぴり反論しながらも、脳が疲れている時は糖分が一番!と返事を返す。

またそんなこと言ってー、今日はまだ始まったばかりですよ。などと笑いながら僕のことをたしなめてくる。

僕が大の甘党だということは抜きにしても、実際甘いものを摂取しないとやっていけないのだ、この職場は。

いつも、戦場のように忙しく、この病院に併設されているカフェでラテをすするこの時間が僕にとってはささやかな幸せだった。

きっと疲れているだろうに、さらに糖質制限ダイエットなどやってのけるこの職場の女性達には本当にいつも驚嘆している。

小さな頃からずっと憧れて、猛勉強プラス一浪の末なんとか合格した医学部でさらに勉強して留年もせず無事卒業、国家試験にもパスして研修も終えようやく医師という職業についた。

この病院に務めてもう3年ほどになり、毎日若手ドクターの肩書きの元、仕事をこなす日々である。

ラテもほとんど飲み終わり、そろそろ仕事に戻らねばと重い腰を上げて、ふと窓際の席に目をやると高校生くらいの少女が降る雪をぼーっと眺めていた。

やっぱり砂糖多めの方が良かったな、なんて思いながら歩いていると婦長とすれ違った。

先生また甘いのですかなどとさっきの看護師と同じことを言う。
なぜみんな僕が甘いものを飲んでいるとそんなに目くじらを立てるのだろう。
ははっと笑って交わしながらなんとなく気になったのでさっきの少女のことを聞いてみた。

「カフェの窓際に高校生くらいの女の子がいたけど婦長ご存知ですか?」

「あー、あの子ね、妹さんがこの病院に通院しててその付き添いで来てるのよ」

なるほど、と思いながら感情が一切見えなかった彼女の横顔を思い出した。

午後の診療はさほど混まなかったのでまた糖分補給をしに行くと、もうあの子はいなくなっていた。

それから数日が経ち、また院内のカフェで彼女を見かけた。また同じ席に座ってぼーっと窓の外を眺めている。
なんとなく彼女は目にとまる。
特別美人とか奇抜な格好をしている訳でもない。
ただ、感情が顔に出ていないように感じてしまう。
無表情であるし、かつ無感情に見えた。

一週間のうち水曜日にだけ彼女が病院に来ていることがなんとなくわかった頃、僕が彼女に声をかける機会があった。
その日はやけに病院が人で溢れてカフェの席が彼女の隣しか空いていなかった。

「隣、座ってもいいかな」

「どうぞ」

想像していたよりもかなり明るい声でニコッと笑って答えてくれた。

いつもの無表情から僕が勝手に抱いていた印象とはかなり違っていたせいでひとりで戸惑ってしまった。

ありがとう、と言ったついででなんとなく話を続けた。

「高校生?」

そう聞くと、彼女はまたニコッと笑ってそうです、と答えた。

「先生は何科の先生ですか?」

彼女からの質問に僕は内科であることを答えた。

そのまま質問ばかりの会話を続け、なんとなく仲良くなった。

彼女は都築はるという名で高校3年生であること。そして一つ下の妹ゆきの通院に付き添って毎週病院に来ていることがわかった。ゆきは生まれつき心臓に疾患があり、通院しているらしい。

彼女に抱いていた印象はガラリと変わった。彼女は案外よく笑う子だった。

僕とはるは、毎週水曜日に院内カフェでおしゃべりをするようになった。歳が10歳以上離れていている医師と女子高生という何ともマニアックな組み合わせだが会話は弾んだ。

僕は診察に来る面白い患者さんのエピソードとか、そんなことばかり話し、彼女は勉強の愚痴とか、学校のこと、受験のことなどを話していた。

僕らはいつも昼頃にカフェで顔を合わせ、よっ!と片手をあげ挨拶すると隣に座って話し出す。
いつも楽しそうな彼女に、僕は初めて彼女のことを見た時に抱いた違和感なんてまるで忘れていた。

そんな時、はるの妹、ゆきの具合が悪くなり、入院することになった。僕がカフェに行くと、待合室にはると、姉妹の母親がいた。はるは僕に気がついて、ひらひらと手を振り困ったように笑った。

なぜだか分からないけど、僕はそのぎこちない笑顔に、はると出会った時の感情の見えない表情を思い出した。

少し心配になって僕が手招きするとはるは母親に耳打ちし、僕の方へタタッとやってきた。
大丈夫か、と尋ねると

「妹ね、かなり悪いの。お母さんはすごく疲れているし、お父さんは仕事ばかりだし、私が頑張らなくちゃ。」
はるはそう言ってまた、困ったように笑った。次は泣きそうに見えた。

その日を境に、僕ははるを見なくなった。
カフェでの話し相手がいなくなるのは少し寂しかったが進学の準備やら何やらで忙しくなったんだろうと思っていた。

婦長に聞いてみるとゆきはまだ入院しているそうだった。

はるが救急車で運ばれてきたのは、雪も溶け始めた3月の初めだった。

OD、薬を多量に摂取したことによりショック状態に陥っていた。救急科の先生達の尽力ではるは命に別状はなかった。

信じられなかった。はるが死のうとするなんて。
なぜ気がつけなかったんだ、僕はあんなにはると話していたのに。
はるの病室に行くとはるは眠っていた。血液を循環させるための点滴が繋がっている手はか細く頼りなかった。
しばらくするとはるはゆっくり目を覚ました。

「…先生。」

僕に気がつく悪いことをした子供のような顔になり、次第に小さく肩を震わせ始めた。僕は理由を聞くことも出来ず、押し殺すような彼女の嗚咽を聞きながら、ただ頭を撫でていた。

どれくらいそうしていたのか、彼女が少しずつ落ち着きを取り戻し、ぽつぽつと話し始めた。

「先生、わたしね、妹が羨ましかった。
生まれた時から体が弱くて、みんなから大事にされていた。お母さんもお父さんも、いつもゆきが優先だった。羨ましくて羨ましくて、でも、こんな事考えてるなんて私って最低なんだって、こんな私は頑張って生きているゆきに申し訳ないと思っていなくならなくちゃいけないと思った。」

僕は何も言えず彼女の話を静かに聞いた。

気がつけばいつも自己嫌悪だったという。誰にも打ち明けられず、わがままを言うことも感情的になることも、彼女の中ではタブーだった。母親たちは何も言わないが、はるの話はいつも、ゆきの次だった。周りにゆきの病気のことを知っている人ばかりの環境で、両親の前でも、学校の中でも、はるは常に聞き分けがよく、妹想いの姉 でなくてはならなかった。はるはどんどん表情を変えなくなった。
良くも悪くも、家族の中でスポットライトを浴びるのはいつも妹だった。病気だから、ゆきは人と同じことをして褒められる。ゆきが風邪をひいたらお母さんは寝ずに看病する。知らず知らずのうちに自分と妹を比べては比べる自分が嫌になる。考えてみればしょうがないことなのだ。だってゆきは体が弱くて、私は丈夫なのだから。しょうがないことをしょうがないとちゃんと分かるから、はるは苦しんだ。

だから、この街を出ようと決めた。だけど病気の妹を残して家を離れることへの呵責ははるの心を痛めつけた。
わたしはどうしたらいいのだろう、何もかも分からない、八方塞がりだ。
楽になれる薬をたくさん飲んだ。楽になりたかった。
死ぬ事ばかり考えていた。日常のひとコマみたいに、当たり前のことみたいに死にたくなる。自分はゆきの姉 であり、はる ではなかった。何者でもないことが苦しかった。堤防を越えてしまった土砂は堰を切って溢れ出す。彼女の中からどんどん、今までずっと彼女が抱えてきたくすんだ色の感情たちを乗せて。

「でもね、先生が話を聞いてくれた。たわいもない話を、でも紛れもなく私の話を先生が聞いてくれた。
先生と話す時はちゃんと笑っていいような気がしたの。」

僕に気を使ったのか、本心か、はるはそう言って小さく笑った。
気がつくと僕も泣いていた。

ただ話をしていただけだった。
僕ははるの話を聞いて、たまにつっこんだり、爆笑したり、一緒に考えたり、たったそんなことで、彼女が彼女の本当の笑顔を見せてくれるなら、僕はいつだって彼女と向かい合おう。そう思った。

1週間後、彼女は退院した。

病気の妹がいるのに死のうとするなんて、誰がが言うだろう、きっと。
そんな心無い言葉が彼女の耳に入らないように、彼女の心を蝕んでしまわないように、僕はそのために何が出来るだろう。
きっと、僕にはやっぱり彼女の話を聞いて、つっこんだり、爆笑したり、そんなことしか出来ないだろう。

はるは大学進学のため県外へと行ってしまった。

先生、カフェにばっかり居ないでちゃんとお仕事しなよ?
なんて憎まれ口をたたきながら、でも、最後は小さく

ありがとね

と言った。

お礼を言われることは何もしていないのだ。
だって僕は彼女の中のくらいの影に手を差し伸べて、引っ張りあげることに失敗したのだから。
はるはもういなくなりたい、と心から願った。
自分の中の感情をすべて殺し、さらには肉体までも殺してしまおうとした。彼女に自分の殺し方など知って欲しくなかった。
無力な僕はそんな彼女の話をただ聞いてやることしか出来ない。そしてただ、願うことしか出来ないのだ。

願わくは、彼女が彼女でいられますように、と。







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