茜色の約束
第1章 僕らの物語の始まり
出逢い
あの瞬間、振り返っていなければ、彼女に出会うことはなかっただろう。
いや、出会うことはあったかもしれない。
けれど、彼女が僕の心を支配することは、あの瞬間がなければきっと存在しなかった。
秋の風が頬を撫でる、神無月のある日。午後四時、太陽が地平線の向こうへと帰って行く時刻。
六畳ほどしかない無人である、片田舎の駅。
二両しかない電車から降りたプラットホームの中心で、僕は自分の定期券を落としてしまった。
拾うために屈んだ僕の黒い影は、僕の身長を超えるほどの長さで伸びている。その影を同じ電車から降りた数人の黒い影が追い抜いていた。
定期券を拾い、腰を上げると、辺りが夕陽の色で染まっていることに気が付いた。
誰もいなくなったと思っているとき、ふいに誰かの存在を感じた。
僕は、とっさに振り返った。
僕の数メートル後ろに、彼女がいたのだ。
彼女は、茜色の空を見上げていた。
彼女の胸まで長さがある長く艶のある黒髪は、風によってさらさらと流れている。セーラー服に細い身を包み、膝より短いスカートからは白く長い足を覗かせていた。
僕は、ふいに肩にかけていた一眼レフカメラを持ち上げ、構えた。
ファインダーを覗き、ピントを合わせる。
数メートル差があった僕と彼女の距離が一気に縮まった。ピントがちょうど合った瞬間、僕は息を呑んだ。
彼女は、茜色の空を仰いで、微笑んでいたのだ。
その微笑みは、灰色の世界を一瞬にして、色彩豊かな世界に変えてしまうようなものだった。
この世界には僕と彼女しかいないのではないか、と錯覚してしまった。
彼女は綺麗だった。茜色の光が彼女の頬を反射している。光を浴びた彼女は、美しく、儚いものだった。
彼女のその微笑みをいつまでも見ておきたい、そう思ったのだ。
そうして、僕はいつのまにか、シャッターを押していた。
カシャッ。
電車がいなくなった沈黙しているプラットホームで、絶対に聞こえるはずがない機械の音が響く。
ファインダー越しに見える彼女の顔が、ゆっくりと僕を見た。
量が多く、一本一本が長い睫毛に覆われた大きな目。高い鼻梁。白く澄んだ肌。頬はほんのりと赤い。
ファインダーの中の彼女の顔がどんどん大きくなる。そこで、ようやく僕は、彼女が近付いてきていることに気付き、慌ててカメラを手元に戻した。
「君、今、私を撮ってなかった?」
彼女の頬に、さきほどの微笑みはもうない。
「え、えっと・・・」
僕は彼女を撮った。それは事実だ。しかし、はっきりと肯定するわけにもいかず、僕は何かしらの言い訳をとっさに考えていた。
彼女は腕を組み、僕を睨んだ。
「・・きん」
「は?」
彼女の声がよく聞こえず、もう一度聞き返した。彼女は大きく息を吐いた。
「だから、罰金払ってよ。十万円」
「え?どうして?」
「当たり前でしょう?私の写真撮ったのよ。それって立派な犯罪よ。警察に言っても構わないんだから」
彼女の声は静かなプラットホームに響いた。
「警察は困ります・・」
「そうでしょう?だから、お金を払ってくれたら、許してあげるわ」
彼女は笑った。
けれど、その笑顔は、数分前の空を見上げたときに見せた笑みとは。程遠いものだった。
僕は彼女の写真を撮った。彼女は僕にお金を請求した。
それが僕らの、なんとも奇妙な出逢いだ。
その出逢いが僕らの物語の始まりだった。