茜色の約束
腐れ縁
「それで、お前、お金払ったの?」
次の日、学校で僕は、重明に昨日の出来事を話した。
「払ってないよ」
「じゃあ、お前は払えって言われた後、どうしたんだよ」
「どうもしてない。黙っていたら、彼女が『払うまで待つ』って言って、帰っちゃったから」
「なんだそれ」
重明は、僕の話を聞きながらも、顔は笑っていた。たぶん、僕の話を面白がっているのだ。
重明とは、小学校の頃からの付き合いだった。
けれど、昔はさほど仲良くはなかった。
小学生の頃、僕は体が弱く、あまり外で遊ぶことをしなかった。そんな僕に対し、重明はいつも外でクラスの友達と遊んでいた。
なぜか、学年には三クラスあるのに、僕と重明は六年間同じクラスだった。そのおかげで、僕は毎日、教室の窓から重明が外で遊ぶ姿を眺めるはめになった。
中学校は、小学校とほとんど同じ面々が進学するので、もちろん重明とも同じだった。
小学生の時のように外で遊ぶことは少なくなったが、体育で活躍する重明を見るはめになったのは、またしても中学校三年間、同じクラスだったからだろう。
高校生になって、僕と重明はようやく言葉を交わすようになった。この高校に進学したのは、僕と重明しかいなかったからだ。
この高校は僕と重明が住んでいる片田舎の小さな町から、電車で約四十分かかる市内にあった。
中学校が一緒だった多くの者は、徒歩で行ける地元の高校に進学した。けれど、僕は市内の高校に進学を決めた。
入学式の日、僕は目を疑った。教室内に重明の姿があったからだ。
中学三年の頃、重明と同じクラスだったにも関わらず、彼の進学先を知らなかった。地元の人ととても仲良かった重明だから、当然地元の高校に入学しているのだと思っていたのだ。
彼は、僕の姿を見るなり、近寄ってきた。
「お前、また同じクラスになったな」
重明はそう言って、白い歯を覗かせた。
「これから、またよろしくな。実」
そう、僕の名を呼んだ。
そのとき、なんともいえない感情が僕の心の中で渦巻いていた。彼とは何度か話したことがあったけれど、こうして面と向かって名を呼ばれたのは、十年経って初めても同然だったのだ。いつも教室の中心にいた彼が、いつも教室の端にいた僕の名前を覚えていたことがただ嬉しかった。
そうして、僕と重明は高校の時間を共にするようになる。僕と重明の仲はただの腐れ縁だ。けれど、腐れていても、縁だということに違いない。
重明には、地元の高校を蹴ってでも、この高校に進学したい理由があった。それは、この高校に料理部があったからだ。
彼は身長一八五センチでとても大きな体をしていた。ちなみに僕は、日本人男性の平均ほどの身長で、ひょろひょろと痩せこけていた。僕と重明の体格の差は歴然だった。まあ、それはいいとして、重明は柔道部などの運動部によく間違われているような大柄な体だったが、趣味はなんと料理だった。
性別や体格と、料理が無関係であるという事実は分かっている。偏見の目で見ているわけでもない。けれど、重明が料理する姿を思い浮かべると、不似合いすぎて、どうしても笑ってしまうのだ。
重明の家はラーメン店を経営していた。重明の苗字は鳴海であり、その店は鳴海の鳴という文字をとって『鳴龍軒』という名だった。僕は重明と仲良くなってから、何度も足を運び、彼の父が作った、店お勧めの豚骨ラーメンを食べたのだが、なんとも美味しかった。麺の硬さも絶妙で、スープには深いこくがあった。ラーメンの味を理解している達人というわけではもちろんないが、鳴龍軒のラーメンが美味しいということに素人の僕にも分かるほど、明らかに美味しかった。
きっと重明はその店を継ぐのだろう。そのために料理部に入部し、料理を頑張っているのだと、彼と将来について語ったことはないのだが、僕はそう思っていた。
ちなみに僕にも、この高校に進学を決めたのは譲れない理由があった。この高校には写真部があったのだ。
僕は小さい頃から、写真を撮ることが好きだった。
祖父がよく写真を撮る人で、僕は祖父の後ろを付いて回った。一瞬で過ぎ去ってしまうひと時を、写真に収められるという感動が、僕にとってあまりにも大きかったのだ。
祖父が亡くなって、僕は祖父が使っていた一眼レフカメラを譲り受けた。それから、僕の写真を撮る毎日が始まった。
この高校には、写真部があり、暗室がある。自分で撮った写真を、自分で現像できることでぼくは入学を決めた。それまで写真館に現像を頼みに行っていたのだが、自分で現像をしてみたかった僕には、この高校の写真部が天国のように見えた。
初めて、自分の写真を現像した瞬間を忘れない。
液の中に浸った一枚の薄い紙に、僕の写した景色がゆっくりと浮かび上がったのだ。
その瞬間、泣きそうになった。あまりの感動に、時間を忘れ、何枚も何枚も現像を行った。
僕の写真は全て白黒だったが、僕の心を満たすのは十分だった。
白黒には白黒にしかない、温かい味わいが存在するのだ。
僕にとってその味わいは、写真によって、頭の中でその色が浮かび上がるというものだった。その瞬間は不思議であり、カラー写真では絶対にできないことなのだ。
僕は、ヒトの写真を撮らず、自然を撮ることが多かった。
なかでも、空を撮ることが好きだった。毎日同じように見えるが、ちょっとずつ違う空。雲の形が全く同じだった日は、一度だってない。
しかし、僕は昨日、彼女というヒトを撮ってしまった。
ヒトを撮ったのは、僕にとって初めての経験だった。