茜色の約束
「また、いつでも来てください」
夜の八時を回った頃、ようやくお開きとなり、入口のところで重明は志保に言った。
「ええ、また来ますね」
志保がそう言うと、重明はにやりと笑った。そして志保の隣に立っていた僕の手首を掴んだ。
「こいつ、男の俺から見てもすごく優しくて良い奴なんだ。だから、実を泣かせるようなことだけはしないでください。末永く仲良くしてください」
僕は急な重明の言葉に心底驚いた。
何も言えず、ただ重明を見る。
嬉しい気持ちはもちろん大きいのだが、同時に恥ずかしい気持ちも生まれる。僕の頬が熱くなるのがわかった。
志保を見ると、志保は僕を見て微笑んだ。
「実が優しくて良い人ってことは、とっくに知っています」
それだけ言い、くるりと重明に背を向け、歩き出す。
僕は重明に「今日はありがとう。また明日な」と言い、志保を追った。
志保に追いつくと、隣に並び、同じ歩幅で歩く。
彼女の横顔をちらりと見ると、志保の顔から微笑みは消えていなかった。
辺りは闇に包まれていた。僕らの頭上には大きな丸い物体が浮かび、その周りを小さく光る何かが散らばっている道を照らすのは、月と星と街灯だけだった。
どちらも口を開かず、ただただ歩く。
僕らの間にはそんな時間がよく過ぎていた。
しかし、僕はこんな時間を気まずいと思ったことがなかった。
むしろ、とても心地よかった。
たまに聞こえる志保の息遣いや、風に流れる志保の長い髪、美しい横顔。
志保のすべてが僕を満たしていた。
けれど、今日、重明との時間を通して、志保は僕と過ごす時間をどう思っているのだろうと、考えた。僕は居心地が良くても、志保にとっては気まずい時間と思っているかもしれない。
僕はいつも、自分のことしか考えていなかったのかもしれない。
「実?」
隣から声がし、我に返る。いつのまにか、僕と志保がいつも別れる場所に到着していた。
その場所は駅から約三十分のところにある歩道橋の下だ。
僕の家はその歩道橋を渡らず、しばらく歩いた団地内にある。行ったことはないが、志保の家は、歩道橋を渡って、しばらく行った入り組んだ場所にあるらしい。暗くなってきたので、志保の家まで送ると言っても、「恥ずかしいからやめて」と言って断られていたので、志保の家がどこにあるのかは詳しく知らない。
そういうことから、僕らはいつも歩道橋の下で別れていた。
僕はそのとき、真正面に向き直った志保へ右手を差し出していた。
理由なんてなかった。
ただ、僕は自分の本能に従ったのだ。
志保は僕を見た。真っ直ぐな眼差しだった。
そして、志保の右手がゆっくりと動き、ぼくの右手にたどり着いていた。
それから、僕の右手を握った。
僕も握る。
すると、もっと強い力で志保は握る。
僕もさらに強い力で握った。
傍から見れば、ただの握手だっただろう。
恋人たちが手を繋ぐといった、そんな甘い儀式などとはほど遠いものだったと思う。
けれど、この握手がこのときの僕らにとっては精一杯の行為だった。
握手、これだって手を握ると書いて握手と呼ぶ。
僕らは目を合わせた。
ふふっと僕が笑い、志保もふふっと笑う。笑い声が重なった。
「今日ね」
志保の微かな声が聞こえてきた。
「私、ちょっぴり寂しかったの」
「え?」
「だって、実、今日ずっと元気なかったから」
志保が寂しかったことに、僕は気付かなかった。
重明と楽しい時間を過ごしているものだと、思い込んでいた。
けれど違った。
さらに、志保は僕が今日、元気がなかったことを気付いていた。
それがただ純粋に嬉しかった。でも、どこかもどかしかった。
志保の寂しさに気付けなかった自分がどうしても、もどかしたかったのだ。
「ごめんね」
志保は僕の顔を覗き込み、「もう平気なの?」と首を左に傾けた。
僕が「うん」と息を漏らすように言うと、志保は「良かった」と微笑んだ。
再び、静かな時間が舞い降りた。
もうとっくに離していいはずなのに、僕らはいつまでたっても手を離さなかった。
離したくなかった。
手から伝わってくる志保の体温に、いつまでも触れていたかった。
僕らは目を合わせ、逸らした。
もう一度、目が合うと、今度は笑った。
そして、また逸らした。
それらを繰り返し、時間がゆっくりと過ぎてゆく。
本当に静かな時間で、心地よい穏やかな時間だった。
しかし、その時間にも、終わりの合図はやって来たのだ。
「あれ?志保ちゃんじゃないかい?」
突然、そんな声が聞こえ、僕は声のする方へ顔を向けた。志保はぱっと僕の手を離した。
志保の体温が離れ、僕の掌は一瞬にして冷えていく。
辺りは暗くて、よく見えなかった。
足音が聞こえ、その声の人物が僕らに近いているのがわかった。
僕らの目の前にやってきて、ようやく顔が露わとなる。
見覚えがない、五十代くらいの中年の男性だった。
縦も横も僕より明らかに大きい。長年のスポーツの経験があるような、そんな迫力のある男だった。
僕は思わず、志保の前に立った。すると、その男はにやりと笑った。
「いやあ、久しぶりだねえ。ようやく見つけたよ」
男はまるで僕の姿が見えていないかのような口振りで話す。
僕を見ているように見えるが、きっと僕の後ろの志保を見ている。
僕はその男にとっては透明人間のようなものだったのだ。
にやにやした表情を浮かべながら、その男は続けた。
「久々の再会、すごく嬉しいよ。でも、今日はちょっと時間がなくてね。またゆっくり会おう」
そう言い、その男は、背を向け歩き始めた。数歩歩いたと思ったら、その男は、何かを思い出したのか、振り返った。そして、その思い出した何かをにやりと笑った顔で言い、再び歩き出した。
『お母さんによろしく』
男は確かに、そう言った。
僕は振り返り、志保を見た。
そのときちょうど、一台の車が横切り、志保の顔にライトが当たった。
僕は目を疑った。
志保の表情は、今まで見たことがないようなものだったのだ。
目を吊り上げ、その鋭い目で、その男の背中を睨んでいる。
下唇を思い切り上の歯で噛みしめている。
ふいに、志保の手元を見た。志保の手が微かに震えている。荒い息遣いが聞こえてくる。
「なんで、あいつが、ここに・・」
固く結まれた口が開き、小さい声で呟く志保。
「志保・・?」
僕が志保の名を呼ぶと、志保は我に返ったようにはっとして、僕を見た。
弱々しい眼差しだった。
目を大きく開け、僕を見つめる。何かを言いたそうに、口を開けた。
しかし、志保はその口から言葉を発さなかった。
一旦、開いた口を閉じ、目を瞑った。
ほんの数秒後、志保はもう一度口を開いた。
そのとき、志保の視線には先ほどの弱々しさは完全に消えていた。
僕が今まで見たことがない、力強い眼差しだった。
「実、今日のところは、もうお別れ」
無理に作った笑顔だと、とっさに感じた。
「でも」僕がそう言いかけると、志保は僕をきっと睨んだ。
「いいから」
低い声で志保はそう呟く。
僕は「わかった」とだけ言って、志保に背中を向けた。
数歩進み、僕は振り向いた。
すると、志保はまだその場に立っていた。
一歩も動かず、ただじっと自分の足元を見ている。
もう、どんな表情を浮かべているのかは分からなかった。
僕と志保の間には、小さな距離が完成されていた。
「志保」
僕は小さい声で志保に呼びかけた。
しかし、志保は僕の声に気付かなかった。
たった数分前の、僕と志保の穏やかな時間が、全て幻だったのではないかと思った。
僕らが共に奏でる和音が存在するのならば、その音が不協和音へと無理矢理変化させられてしまったような、そんな気がしたのだ。